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引用サイト:大紀元
https://www.epochtimes.jp/jp/2011/12/html/d86776.html
中国崑崙山の仙人(8) 真体 (本当の体)
五、真体
3回目に平先生と会ったのは、中学生の時だった。当時は80年代で、中国全土で気功ブームであった。点穴、太極に熱中した父は、今度は気功に夢中になった。彼は工場を管理しなくなり、どこかで気功師が講座を開き、気功を教えると聞いたら、即申し込み、全国あちこちへ出かけて行った。父は、様々な種類の気功を学び、気功の書籍や雑誌などが本棚をいっぱいに占めた。当時の有名な気功師たちと会ったこともあり、彼らとやり取りした手紙もたくさんあった。父はそれらの手紙を全部保存していた。 当時、だれかは知らないが、ある気功師が父に「食指弾神功」という気功を教えた。その気功師は、これは秘伝の功法なので、他の人に教えてはいけないと父に告げたという。父は、当時体の弱かった私にこの気功を教えてくれた。明け方3時になるとベッドから起き上がり、座禅を組んで、気功の動作を練る。頭の中で、なんらかの気が全身を貫通して、丹田を経て、両腕を経て、それから指先に着く、などとイメージするのだが、今はあまり覚えていない。最初の2日間は気功をするということに興奮して、定刻にちゃんと起きたが、3日目からは、もう起きられなくなった。父が呼ぶと、父を恐れて起きたが、こっそりと居眠りをした。座禅を終えると、外で指を練習する。最初は5本の指を練るが、だんだん減っていって、最後には2本の指だけを練る。そして、ハードルが高くなると、たった2本の指で全身を倒立する境地までに達し、さらには石を体につけて、倒立する。あの気功師の話によれば、根基が良ければ、1年あまりの時間でこの功法を身につけることができ、さらには2本の指で壁に穴を開けることができるという。 私は、父が監督しない時には、外で完全に眠っていた。父が私の練習を確認する時は、怠けていることが見抜かれるのを恐れ、歯を食いしばり、指の痛みを我慢しながら父にやって見せた。もう涙がでるほど痛かった。父は、満足した様子で、進歩したと言ってくれた。しかし、終わると10本の指が痛くてたまらず、朝ごはんの時には、箸さえまったく使えず、両手でさじを挟んでご飯を食べた。 幸い、父はあの気功師に、私も「食指弾神功」を練っていることを告げた。気功師は、18歳未満の人が練ると体を傷つけることがあり、発育不全の恐れがあると言った。びっくりした父は、急いで私にその気功をやめさせた。もう10数日も練っていた私は、やっと解放されたと思い、ほっとした。 平先生との出会いから、私は玄学や宇宙の探索などの分野に興味を持つようになった。中学生の時、学校の図書館は学生には解放されていなかったが、父が校長と多くの先生たちを知っていたので、私は先生の身分で図書館を利用することができた。私はそこで、一日中ずっと宗教や玄学、未解明の謎に関する本を探し出して読んだ。あの頃は、(※)改革開放(かいかくかいほう)が始まったばかりで、図書館はこれらの新しい本をたくさん導入し、私は多くのことを知ることができた。 3回目に平先生と会ったのは、中学校2年生の夏休みの時だった。夏休みであったが、私は依然として図書館で本を探し、読み続けた。学校から父の工場まではあまり遠くなかったので、お昼は父の工場に行ってごはんを食べ、夜は父の車に乗って一緒に家に帰った。 そんなある日、夕食を食べる時間となり、私はいつもの通り父と待ち合わせるために父の工場へ向かった。校門を出たところの道の脇にある人物が立っていて、私を見つめているのが見えた。よく見ると、私はびっくりした。彼は、私が5歳の時に見たことのある平先生であると感じたのだ。しかし、ただ感覚だけであって、5歳の時から長い間、ずっと彼と会っていなかったので、顔立ちも既に忘れ、確認できなかった。彼が私の名前を叫ぶと、私はやっと平先生であると気付き、感動のあまり急いで彼の元へ走って行った。彼は今も私の幼名を覚えていた。私がこの学校に通っていることを、彼はどうやって知ったのだろうか。家に寄ってから、ここに来たのですかと聞くと、平先生は頭を振りながら、偶然ここを通ったので、ついでに私を見に来たのだと言った。 私はもう少しで涙が出るところだった。幼いころから、なぜか平先生は、遥か昔の時の身内であるような感じがしたからだ。まるで、久しぶりに再会したかのようだった。彼はずっと私のことを覚えていてくれた。私は急いで彼を連れて、父に会いに行った。父も言うまでもなく大喜びし、平先生が肉を食べないことを覚えていたので、たくさんの新鮮な野菜を買って、一緒に家に帰った。 翌日、父は平先生を書斎の中に連れて行き、ここ数年間の気功に関する研究結果とメモなどを持って、彼にあれこれと聞いた。私も側で一緒に聞いた。しかし、彼はずっと頭を振りながら、とても厳粛な表情で、自分は他の修練の法門については知らず、自分の法門のことしか知らないと言った。修行する法門は数え切れないほど多いが、同時に二つの法門を修めてはならず、さもなければ、その人の体は損われてしまうというのだ。 ※改革開放―1978年から中国で実施された経済政策。文化大革命後の経済を立て直すため、経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などが行われ、市場経済への移行が推進された。 (翻訳編集・柳小明) |