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引用サイト:大紀元
高智晟著『神とともに戦う』(62) 2>163(2は163より大きい)③
2002年、中国人民政治協商会議全国委員会が、同委員会主席(当時)であった李瑞環氏の提唱により、中国文化の真髄を発揚させるため、北京で京劇や中国画などのコンクールや個展が次々に開催される予定だった。広東省の著名な中国画の画家10人も北京で個展を行う予定だった。そのうちの5人は、小谷囲芸術村の「村民」で、しかも彼らの作業室も芸術村にある。よって、小谷囲芸術村の声望と社会への影響力の大きさは言うまでもなく、我が国の芸術創作という大花園の、非常に重要な一角を占めていたのである。
芸術村の多大な影響力により、その名声は中国内外に響き渡っていった。海外のメディアやインターネットサイトも“小谷囲芸術村”を報道した。ある海外メディアは「共通の言葉、文化教養を持つ芸術家が打ち解けあい、交流し、むつまじく共存している。同時に、各自の個性や創作の空間を保つこともできる。様々な個性が却って独特の味を生み出した、これまでに全くない風格を持つ別荘。あるいは荘厳なトーチカ、あるいは豪華な王宮、あるいは伝統的な日本式の二重ひさしの建築から紡ぎ出された新しいクラシック、あるいは簡潔で流暢な、あたかもポスト現代美術館である。これは斬新な住宅地であるが、高尚な品位のある建築博覧パークと呼ぶほうがふさわしいかもしれない」と、その様をつづった(海外の新聞雑誌からの引用)。 海外メディアはまた、我が国にある現在の「芸術村」を比較した。報道の中で、「『文化村』は、これまでずっと世界各地の文化人の理想郷であったが、中国の文化人にとっては、具体的な国情に妨げられて、憧れの『文化村』が往々にして、望んでも手の届かない蜃気楼となっていた。かつて北京、瀋陽、重慶には、それぞれ『芸術村』と自賛する文化村落があったが、どれも本物のレベルには達していなかった。ただ唯一広州に、『文化的地位』がとりわけ目立つわけでもないこの商業都市に、奇跡的に1つの『芸術村』が誕生した。これこそ、いまだに船で渡らなければ上陸できない、本物の『桃源郷』なのである」と手放しで評価した。 このような海外の報道から、この「芸術村」が中国以外へ与えた影響が見て取れる。同時にまた、新時代の広州だけが有する誇りだともいえる。この「芸術村」を通じて、改革解放政策以後の広東省における、各層の巨大な変化も映し出された。それは本来、我々の時代のクレッシェンドになるべきであったのだ。 フランスのパリには、フランス文化省が支援する「パリ国際芸術城」がある。ここは世界の美術家が集中している場所で、中国の有名な美術大学数校も芸術城内に、1室あるいは2室ほどの画室を有している。ここは、すでに世界にも認められた、芸術家同士が触れ合う聖地なのである。その「パリ国際芸術城」基金会代表のブルーノ夫人は、「小谷囲芸術村」の知らせを聞くと、わざわざ現地まで足を運び、「中国、特に改革解放後の広州に、このような良好な環境と、優れた芸術家が生活しながら制作する芸術村があることは、世界の芸術界における広州の地位を高めるのに、とても良い作用がある」と語った。 マルクスと共に社会主義観を構築したフリードリッヒ・エンゲルスの孫娘も、かつて「小谷囲芸術村」を訪れ、芸術家の創作環境を称賛している。パリ国立高等美術学校、ウィーン美術アカデミーも前後して同村を訪問。中仏電力協会のフランス代表は、「芸術村」の見学の際、村に足を踏み入れた途端に「何と素晴らしい」とため息をもらした。画室や作業室の見学の後、「私がここで見たものは、西側諸国で宣伝されていたものとは全く違う。帰国したら、現在の中国――広州は我々が耳にしているのとは全く違うことを友人たちに伝えよう」と感慨深げに漏らした。 世界的に有名な中国系フランス人の芸術家・陳建中氏は、フランスで最も有名な芸術家の町、パリの「モンマルトルの丘」(ピカソもかつてここに画室を構えていた)に画室を持つほどの人物だ。陳氏も小谷囲芸術村を見学後、「中国の芸術家がこのような環境と、このような作業場を持てるのならば、外国に脱出する必要などない。ここはモンマルトルの美に匹敵する」と、感慨深く語った。 以上の世界各方面からの反響から分かるように、「小谷囲芸術村」は普通の分譲住宅地でもなく、別荘エリアとも比較できない。文化芸術村はこれまでずっと、各地の文化芸術界の人々の憧れの楽園であった。何よりもモラルある制度が心をこめて育て上げ、モラルある政府がきめ細かい気配りをして守る重要な場所なのである。芸術家にとって、良好な創作環境に優るものなどありはしない。海外では、多くの芸術家が集まる芸術村は、単に芸術家を一流に成就させる肥沃な大地であるだけではなく、現地文化の発展のシンボルでもある。芸術村は往々にして、国家や社会および時代の誇りとなる。例えば、パリ郊外のバルビゾンにも芸術村がある。そのスタイルは「小谷囲芸術村」ととても似ているが、すでにパリの観光名所となり、パリ文化の1つのシンボルにもなった。 「小谷囲芸術村」は、芸術界、建築界の芸術家の10年近くに及ぶ心血を結集し、ひとつの作品としてデザインし、大変な苦心の末完成させた。よって、かなり高い芸術的品位を備えている。この品位はまず、制作の上での具体的な機能となって現れる。例えば広々とした作業室や画室などだ。生態環境においても、緑化に大変注意を払っており、庭園の緑にはどれも個性があった。もちろん、資金面での限界および構想の深化という理由によって、まだ未完成あるいは理想通りにはいかなかった所も多々ある。これらは芸術家による期待が待たれるところだったが、もうその全ては水の泡と帰した。いかなるマフィアよりもずっとあくどい官と業の癒着のもと、立ち退き実行者らは、上述の全てを破壊し尽くしたのだった。 芸術村は、芸術家らが一生涯の貯蓄と長年の心血を注いで築き上げたものだった。その目的は、芸術の創作にふさわしい環境を作り上げるためである。もし外部の要因で移転するなら(違法で野蛮な立ち退きなどなおさら言うまでもない)、芸術家にとっても、芸術の創作にとっても打撃であり、建築物の価格で推し量れるようなものではない。まさに嶺南画派の老大家・林豊俗が言った「画室が一旦取り壊されたら、もう二度と画室を造る気力はない」という言葉の通りである。彫刻家の韋振中教授は、「一旦作業場が取り壊されたら、すべての彫刻作品の原稿(国際金賞獲得作品も含めて)は、二度と残せなくなってしまう」と、一種悲観的な心境でこれに向き合った。 「広州大学都市」、それを作るためにこの芸術村は、現在すでに軍警察、軍犬および国家幹部の悪行の下、廃墟と化した。「小谷囲島」、珠江に浮かぶこの小島がたたえる、極めて稀有な山村と文化、そしてその景色は、人為的な方法で取って代わることはできない。千年百年の単位で形成された地形および自然の景観は、モラルある政府によって残され活用されるべきであったが、これらの一切は、二度と価値ある話題となることはないだろう。 (続く) |