引用サイト:大紀元
https://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d66342.html
私の担当した案件の一部には、なかなか興味深いものがある。あるいはニュースとして話題性のあるものといってもよい。それらはどれも社会的弱者への無料裁判援助や、被害児童への無償法律援助などで、残りはすべて経済訴訟である。
1998年7月15日、中国弁護士報という業界紙に「子供の無念を晴らしたい」とのタイトルの文章が載った。主人公は、鄒偉毅という子供である。1993年、この子は生後3ヶ月の時、遼寧瀋陽鉄道局病院で点滴を受けたが、その際、病院が大量のペニシリンを投与したため、両耳が重度の難聴になってしまった。この医療事故の訴訟のために、幼子と老いた祖母は6年近くも奔走したが、病院はびた一文、賠償金を支払わなかった。そして万策尽きた老祖母は新聞社の入り口にひざまずいて窮状を訴えたのだ。文章の最後は、「この子へ法律援助の提供を望む正義感ある弁護士は、すぐに中国弁護士報にご連絡下さい」と結ばれていた。
この記事を読んだ私は、涙がとまらなかった。そしてすぐさま受話器を取り、「この子へ法律援助を提供したい」と北京に電話をかけた。だが新聞社の対応には失望した。彼らは、(辺境である)新疆の弁護士の私が援助をしたら(鄒少年のいる瀋陽を含む)内陸部の弁護士10万人の面子が丸つぶれになるとの理由で、私の申し出を謝絶したのである。
しかし、新聞社も最終的には私を選んだ。というのも、全国から13の弁護士事務所が手を挙げたものの、みな多少は被害者に費用、少なくとも旅費の支払いを求めたためである。被害者からは1銭も取らないと宣言した弁護士は、1人しかいなかった。その弁護士とは、私である。
新聞社は、私が弁護をする決定を子供の祖母に伝えたが、祖母はその場で拒絶したという。その理由は後になって祖母が明かしてくれたが、まず新疆は遠すぎて謝礼を払いきれないと思ったからと、もう1つは、新疆は内陸よりも遅れているため、新疆の弁護士のレベルも高くないだろうと思ったからであった。
私は祖母に電話でこう伝えた。「老人家(ラオレンジァ、高齢者に対する敬称)。私は新疆の弁護士で高智晟と申します。私には、お孫さんと同じくらいの年頃の子がいますので、子供があんな目に遭った時の親の気持ちは痛いほど分かります。だからお孫さんの裁判をやらせて下さい。私に会って下されば分かると思います。私は売名のためにやるのではありません。お孫さんへ本当に役に立つ援助をさせていただきます」。私の話を聴いた祖母は、電話の向こうで泣き崩れた。「高先生。この年になるまで、あたしを老人家と呼んでくれた人に出会ったことがない。あたしらのような者にも、人格や尊厳があることを認めてくれた人に出会ったこともない……裁判は高先生に任せます」
この裁判は苦労の連続だった。まず、巨額の個人負担を覚悟しなければならない。この頃、私は新疆に住んでおり、被害者は遼寧省に住んでいる。その間の距離、ざっと数千キロ。新疆のウルムチから遼寧省の丹東(たんとう)市まで、私と助手の飛行機代が片道だけでも5千元はかかる。当時、我が家にはいくらも蓄えがなかった。しかし妻は、「私たち、もともと貧乏じゃない。生活が多少きつくても大丈夫よ。頑張って」と、潔く私を後押ししてくれた。
(続く)