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高智晟著『神とともに戦う』(54) “黄じいさん”の暴力的立ち退きから1年①
撤去される前の黄じいさんの家は、人民大会堂から3キロほどの所にあった。その家が破壊される数週間前、人民大会堂には3千人近くの人民代表が集まり、私有財産を「憲法」の保護に入れるべきだと高らかに叫んでいた。しかし、人民代表の興奮と比べると、人民大会堂の外は一切が冷めていた。平和的な中国公民の合法的な私有財産である住宅は、あいも変わらず旧態依然とした官業癒着の者らによって、彼らの好きな時に、彼らが狙いをつけた場所を、事前に口裏を合わせておいた「理由」にかこつけて、無理やり撤去するのだ。先祖代々住み、そこで生活してきた我が家。やくざ同然の暴力的な、結託した官僚と業者による野蛮な破壊行為を受けたその家の所有者は、昔と変わらず、声を張り上げて泣き、訴える所すらないのだ。黄じいさんのこの1年の境遇は、それを証明していた。
1年前の今日、「人民日報」(注、中国共産党の機関紙)がある評論を発表した。それは「憲法」を取り上げ、野蛮な暴力を振るう者に対して怒りと抗議を表した黄じいさんに敬意を表する内容だった。そして1年後の今日、ここで、私はやはり「人民日報」に敬意を表す。それはこの新聞が表明したこと、つまりこの新聞の歴史上まれに見るような、救いのない中国公民に対して善意と同情の意を示したことに敬意を表すのだ。この新聞がもつ「天真爛漫さ」と、それによる「どうしようもなさ」に敬意を表すのではない。
「人民日報」は、もとより中国共産党の耳目であり、報道官であることを自負している。黄じいさんへ敬意を表した文章には、修正後の憲法が公民の合法的な私有財産を守る方面で、十分な力を発揮してほしいというこの新聞の願いが表れている。この新聞が、かつてのような、また誰もが知っているような、1銭の価値すらない道具ではない、というわけだ。これは一種の甘さ、無知からくる甘さといえよう。いかなる試みであっても、この現行の制度の下で、公権力の規制を受けている憲法によって個人の権利が保護されることを期待するなど、所詮笑い話にすぎない。この新聞が黄じいさんに敬意を表す文章を載せた同じ日、黄じいさんの家は、野蛮な立ち退きにあって、廃墟と化した。もともと穏やかに我が家で暮らしていた2人のお年寄り(黄さん夫婦)は、瞬く間に寄り処のない身となってしまった。この1年、2人は住む場所もなく、ほこりだらけになって、各関係部門を奔走しているが、いまだに1銭の補償金すら手にしていない。1銭の補償の約束すら得られていないのである。しかもこの1年の間、「人民日報」は黄じいさんの人生の大災難を前にして、彼らの身分にふさわしい沈黙を選んだ。
(続く)
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