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引用サイト:大紀元
https://www.epochtimes.jp/jp/2008/05/html/d70030.html
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(33)「近所の子供たちと過ごした楽しい日々」
 どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。弟は扇子にみたてた小さな木板を持って、腰にはきれいな帯に見立てた腰ひもを結んでいました。私たち二人はヤンガ踊りを見るのが初めてだったので、とても新鮮で面白く感じました。

 私たち二人は、中庭で夢中で踊り、大人たちが口ずさんでいた歌をまねて、「ヤンガ~ヤンガ~」と歌っていました。しばらくすると、隣近所の子供たちも出てきて、周りで私たち二人が踊るのを見ていました。しかし、子供たちは皆恥ずかしがり屋で、一緒に踊ろうと手招きしても、首を横に振って、真似て踊ろうとはしませんでした。

 このとき趙おばさんが出てきて、私と弟が踊っているのをみると、私たち二人は物覚えがよく一度見ただけでヤンガを覚えたと褒めてくれました。趙おばさんは、さらに長屋の趙おじさん、王おじさん、党智おじさんも呼んで、皆が見に来ました。それで、私と弟はさらに熱を入れて踊りました。


 趙おばさんは自慢気に皆に、「見て下さいな!息子の全有があんなにも上手に踊っていますよ」と言いました。党智おじさんは周りで立って見ている子供たちにも一緒に踊るように誘い、自分でも首にかけていたタオルを頭に巻きつけ、ロバを追い立てるお爺さんの真似をして、腰を曲げて楽しそうに踊りました。私はこの長屋に来て随分経つのに、党智おじさんがこんなに楽しそうなのは初めて見ました。おじさんは平生は非常に寡黙でしたが、歴史故事を話しだすと滔々としゃべり続け止まりませんでした。今子供たちと遊んで、とても楽しそうでした。

 しばらくして、回りで見ていた子供たちも私たちのヤンガ隊に加わりました。王おじさんたちは、私と弟が一番上手だと褒めてくれました。私は、私と弟が物覚えがいいのは生まれつきだと思いました。その日は、私と弟がここ数カ月で一番楽しい日でした。私にとっては特にそうでした。

 養母が不在であった日はとても短かいものでしたが、私にとっては最も楽しい日々でした。さらには、養父は私を、実の子のようにかわいがってくれました。養父は不在がちで、養母の私に対する酷い扱いを改めることはできませんでしたが。しかし、私は本当に満足していました。

 西院には子どもたちがたくさんいました。そこには王おじさんの弟の王東民一家が住んでいました。二年前に弟が病死したので、王おじさんはその残された未亡人母子を故郷の実家から連れて来て、この西院に住まわせていました。その家には子供が4人いて、二男二女でした。私たちは、その母親を「二番目のおばさん」と呼んでいました。彼女の次女は私と同じ年で、一番下の男の子は弟の趙全有と同じ年でした。私たちはいつも一緒に遊んでいました。彼らは、決して私たち二人をいじめたりすることがありませんでした。

 「二番目のおばさん」は、とても若くてきれいで、子供たちもおばさんに似て、きれいだし、ハンサムでした。おばさんは私の母をほうふつとさせました。私の母も非常にきれいだったのですが、今では生きているのかどうかさえ分りませんでした。母もかつてはおばさんのように四人の子供を連れていたのです。私はしばしば二人の小さな弟のことを思い出しました。

 西院のそばの西棟には二世帯が住んでいました。一世帯は父親の名を張小禄といい、家には三人の女の子がいましたが、母親はいませんでした。張小禄はまだそれほど年がいっておらず、身体も元気だったので、再婚を望んでいましたが、三人の子どもに辛い思いをさせるのではないかと心配で、ずっと一人で三人の娘を育てていました。

 もう一世帯は李という家で、ご主人は李光忠といいました。この家には、一男一女がおり、女の子は私より二歳年下で、李鳳芝といいました。口が特に速く回って、その上きついので、子供たちは皆彼女を少し恐れていました。彼女はよく近所の子供たちと喧嘩をしていましたが、数日後にはもう仲直りしていました。

不思議なことに

 不思議なことに、彼女は決して私には辛くあたらず、喧嘩をしたこともなく、私にとてもよくしてくれました。もし外の人たちが、私と弟を「日本のガキ」と呼んだら、彼女は自分より年上の男の子であっても喧嘩を仕掛けて罵ってくれました。彼女はヒステリー気味でしたが、養母とは正反対で、私を護ってくれました。

 総じて、当時、西院のこの何軒かの家の子供たちは私たちを侮辱することはなく、どの家の子供たちも私と弟にとてもよくしてくれました。特に、養母が「出て行った」「戻ってきた」という情報については、こっそり探って伝えてくれていました。このようにしないと、私は彼らと遊ぶことができなかったのです。

 私は彼らに折り紙で動物の折り方を教えたり(開拓団の学校で学んだもの)、紐を使ってあやとりを教えたりしました(東京でよく園子姉さんと一緒に遊んでいた)。そして、彼らは、私に羽根蹴りや「ガラハ」遊び(一種のさいころ遊び)を教えてくれました。

 その頃、私は毎日のように殴られていましたが、この沙蘭鎮新富村に住んでいた数カ月は、私の幼年期の記憶の中では美しい記憶の歳月を残すことができました。

 年が明けると、天気は次第に暖かくなってきました。屋根の上の雪は昼間には融け始め、中庭の日の当たるところも雪が融けました。日が暮れるとまた凍りましたが。朝起きると、軒下にツララがぶら下がっており、ちょっと触るとすぐに落ちて、粉々に砕け散りました。このような光景も、日本の東京にいた頃には見たことのないものでした。

 私は毎朝早く起きて、まずしびんの中身を捨てに行きました。人に見られるのが恥ずかしかったので、まだ誰も起き出していないうちに捨てに行っていたのです。私は時々、一人で小さな棒をもって軒下のツララを叩いて落としました。とても面白くて、あんなに長いツララが地面に落ちると、粉々になるのです。しかし、二、三日経つと融けてしまい、屋根の上の雪がツララになることもなくなりました。

(つづく)
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