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引用サイト:大紀元
https://www.epochtimes.jp/jp/2008/03/html/d58318.html
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(23)「伝染病の流行」
 伝染病の流行

 しかし、この時期、全ての人にとって、さらに恐ろしい災難が降りかかろうとしていました。この頃になると、人々はすでに明らかな栄養失調になり、体力は衰弱しきっていました。加えて、着替えの服がなかったので、衣服にシラミが発生しました。そんなとき、恐ろしい伝染病が流行し始めたのです。

 私たちのあの大きな部屋でも幾家族かが伝染病に感染し、その中のある家などは、大人と子供が数日もしないうちに死んでしまいました。しかも、一人亡くなると後を追うようにしてバタバタと亡くなっていくので、本当に恐ろしく思いました。私は初めて、死神がこんなにもそばにいて、こんなにも恐ろしいものだということ、命はこんなにも脆いものだということ、そして人はこんなにも無力だということを、身をもって実感しました。

 母は、私たち子供にうつるのではないかと心配して、夜が明けると、私たちを起こして外に誘い出しました。私たちは毎朝、母に連れられて小川のほとりに行き、顔を洗い、歯をみがきました。晴れているときは、母が頭も体も洗ってくれ、時には素っ裸になって布を体に巻いて、草の上で服が乾くのを待ちました。

 私たち家族は、玄関に面したところで寝ていました。夜になると時折冷たい風が吹いて来ましたが、母は空気がいいと言っていました。連日、同じ部屋の人が何人も亡くなり、すし詰め状態からは解放されましたが、とても恐ろしい思いが続きました。

 初めは、自分の家の子供が死ぬと、大人たちはひどく悲しみ、その死体を南の小山に運んでいきました。そこでは、一人ひとりのために穴を掘り、埋葬し、お墓の土盛りに野山の花を添えていました。ある時、まだ幼い男の子の母親が亡くなりました。隣で暮らしていた大人の人がその子を抱きかかえ、野の花を持たせて、息を引き取った母親の上に供えさせていました。

 後になると、亡くなる人が日を追って増えたため、埋葬の穴を掘るすべもなく、穴を掘る大人さえも一人ひとりと死んでいきました。結局、死体は山間のあの大きな溝へ投げ捨てるようになりました。もう、自分の家族が死んでも泣くこともなくなり、人々の感覚は麻痺し、感情と知覚を失ってしまっていました。死神が降りてきて、伝染病で大人、子供の命を奪い、馬蓮河収容所では死体が山の如く積まれたのでした。

 その頃になると、開拓団の人々は、日本が戦争に負けたので、誰も自分たちをかまってくれなくなったと感じ始めていました。食べるものも着るものもなく、帰る家もなく、途方に暮れました。子供たちが腹ぺこでも、母親たちはただかわいそうに思うだけでどうすることもできず、病気になっても薬などなく、栄養の補給さえままなりませんでした。

人々は、生き抜くことにもはや絶望を感じていました

 人々は、生き抜くことにもはや絶望を感じていました。私はある時悲惨な光景を目にしました。一人の母親が、まだ息のある自分の子どもを馬蓮河屯の南側にある急流の大河に投げ捨て、自分も身を投じたのです。当時、私は何人かの子供たちと村のはずれの広場で遊んでいたのですが、泣き叫ぶ声を聞くこともなく、ただかすかに水の音が聞こえただけでした。私は走って家へ帰り、母にこのことを話しました。すると、母はギュッと私の肩を抱きしめて、「どんなに辛くても死のうなんて考えたらダメよ。生き続けるのよ!もしお母さんが死んでも、あなたと弟たちは生き抜いて、必ず日本のお婆さんとお姉さんのところに帰りなさい!たとえ一人になっても死のうなどと考えたらダメ。なんとしても生き抜くのよ!決して希望を捨ててはダメよ!」

 母はギュッと私を抱いて、一字一句をかんで含めるように言い聞かせ、わかったかどうか聞きました。私は何も言わず、ただ頷くだけでした。

 母の善良に神様が感動したのかもしれません。わたしたちと同室の多くの人が亡くなりましたが、私たち五人は伝染病にかかることもなく、どうにか難を逃れました。私たちのこの八丈開拓団本部では、伝染病で亡くなった人は少ないほうでした。

 馬蓮河屯で起きた多くの事は、今でもはっきりと覚えています。ただ、あの頃は小さかったので、その現実が結局いかなることなのか、当時は頭がそこまで回りませんでした。

 ある日、一人の大柄の中年男性が子供たちを南側の広場に呼び出しました。母は、子供たちに何か勉強を教えてくれるのだろうと思い、私たちを行かせてくれました。私は、同室の子供たちとは親しくなかったので、二人の弟を連れて行きました。広場に着くと、皆は円くなって座りました。ずいぶんたくさんの子供たちが来ており、中には弟たちのように小学生にも満たない子供もいれば、中学生のような男女の学生もいました。

 皆は、地面に座って、静かにその大人の人の話を聞きました。その人はまず、自分は日本の軍人で、「何々官」だと自己紹介しましたが、よく覚えていません。しかし、その人が話したことは少しは覚えています。その人は、「日本は戦争に負けた。しかし、戦争は学生の授業のようなもので、授業があるときもあれば、ないときもある…」などと、くどくど言っていましたが、よく覚えていません。

 私は帰って母にそのことを話すと、母は、「もう呼び出されても、行くことはありません。あの人は元々先生ではないし、無責任に好き勝手にしゃべっているだけだから、そんな話を聞いちゃダメですよ」と言うので、それ以降は呼ばれても行かなくなりました。

 大きくなってから次第に分ってきたのですが、日本人の中には、日本が戦争に負けたということを受け入れることができない人たちがいたのです。

(つづく)
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