1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者(写真・著者提供)
はじめに
もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
私は、運命が私の前に繰り広げた艱難辛苦の人生を歩んできましたが、不思議なことに、今日、このように穏やかで寛大な気持ちで、その運命に正面から向き合い、それを書き綴ることができます。私と同じ運命をたどり、当時、「リーベン・ハイズ(日本人の子)」と呼ばれた「中国残留日本人孤児」にとって、これから書き綴る私の運命は、ごくごく普通のことでありながらも、振り返るに忍びないものなのですが。
今でも思い出すたびに涙がこぼれる、二度と会うすべのない弟たち、愁いなど知らないかのようにいつも明るかった父、慈愛に満ちて温かく、人もうらやむほどにきれいだった母、そして、敗戦直後の逃亡時にこの世に生を受け、わずか五日間生きただけで餓死してしまった幼い弟。この家族みんなに対する切ない思いが深く心に刻み込まれ、ひと時も安らぐことはありませんでした。
私は両親や弟たちをとても深く愛していました。生きるために日夜もがき苦しんだ日々でも、いつになったら日本に帰れるのだろう、いつになったら私をかわいがってくれた母や弟に会えるのだろうと願い、待ち続けました。この永遠に叶えられそうもない辛い思いが、一生涯私につきまとっていたのです。
私がたどった運命の全ての真相、そして八歳のときから日本へ帰りたいがために耐えてきた苦難と怨恨の全てが、数十年後に解きほぐされることになりました。母と弟の当時の願いを胸に、夢にまで見た故国・日本の地を再び踏むことになった私は、再度運命の手によって用意された新たな神奇な経歴をたどることによって、今生私が経験した運命のなぞがはっきりと解き明かされたのです。
今世では、八歳のときに別れ別れになった両親には二度と会えないし、当時わずか四歳と二歳だった弟たちにも会えないかもしれません。ただ、私は両親や弟たちとは切っても切れない大切な「縁」で結ばれているのだということがわかり、そして、生涯私とともにあったその「縁」の背後にどんな意味があるのかがわかったことによって、私はついにこの数十年間の苦しみから解き放たれたのです。
【2009年1月1日】
(つづく)