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引用サイト:明慧ネット
http://jp.minghui.org/2017/03/06/51995.html
古今の天象から正法修煉の延長について考える(2)滅佛によって招かれた天罰、予言を正確に見定める
文/ 聖縁

 【明慧日本2017年3月6日】修煉の時間は、師父に何度も延長していただきました。多くの弟子はそれを大切にし、絶えず精進していますが、一部の人は時間が経つにつれて緩み、正法修煉の時間が延長されることに半信半疑になり、怠惰するうちに中士まで落ち、甚だしきに至っては圓満成就に対しても動揺し、正法修煉を放棄または大法に反対する側に走りました。————これらはすべて師父や法を完全に信じていないことによる結果です。遡れば、その根源は旧勢力が中華神伝文化を破壊し、現代人の大法を認識することに妨げをもたらしたからです。


 当文章は天象文化の最低の視点から、歴史を振り返り、天人合一の玄妙さを公開し、今の時代をはっきりと認識すれば、時間が一回一回延長されていることが見えます。天象に一回一回の印をつけました。これは未来へ残した証拠にとどまらず、さらに今の人間に警告を与えています。

(前文に続く)

 世の人々が認識している歴史は、歴史の表面に限定されており、深いところの因縁関係が見えないので、常に天道から外れています。当章の主人公は後周(訳注:唐の滅亡後の五代十国時代)の第2代皇帝・柴栄(さいえい)です。彼はずっと名君と認められ、勤勉に国を治め、全面的に改革し、国の面積を広げ、輝かしい戦功を持っていましたが壮年で急死し、享年39歳でした。人々は彼が最も英気みなぎる時期に死んでしまったことを嘆きました。しかし天道で測れば、彼は逆天の帝王であり、2回の大凶天象は、柴栄の逆天の罪が天象に刻まれています。

 1. 熒惑が太微垣に留まり、滅佛の罪を前もって示す
(訳注:太微垣とは古代中国天文学において、天球上を3区画に分けた三垣の上垣)

 太微垣(たいびえん)は朝廷の政府に対応しています。熒惑(けいこく:火星の異称)は天罰に対応しています。火星が太微垣に留まることは、天が帝王を攻め、あるいは帝王が命を落とし、朝廷が転覆するということを示しています。

図:954~955年の大凶天象——熒惑(火星)が太微垣に留まる(後周世宗が即位して顕德元年~2年)

 柴栄は954年に即位しました。同年に熒惑(火星)が太微垣に留まる大凶天象が現れ、柴栄の極めて大きな罪を、天が処罰する前兆が示されました。熒惑が太微垣に留まる天象を走り終わり、再び太微垣を通過する時、955年5月、柴栄は全国で滅佛運動を起こし、寺院を破壊する聖旨(せいし)を下しました。全国の寺は皇帝の題字があれば免除され、それ以外は一つの県に一つの寺だけを残し、他の寺を全て破壊するように命令しました。全国で30360カ所の寺が破壊され、2000余りの寺だけが残されました。佛像を溶かして硬貨を作り、100万人以上の僧侶や尼僧が強制的に還俗させられました。[1][2]

 佛教を滅ぼすことは天ほどの大きな罪になります。柴栄の前に3人の帝王が滅佛運動を起こしたため、結局この3人の帝王は全て壮年で急死し、子孫にも影響をおよぼしました。この3人の帝王は北魏の拓跋燾(たくばつ とう)、北周の宇文邕(うぶん よう)、唐の時代の李炎でした。

 北魏(南北朝時代)の第3代皇帝の太武帝・拓跋燾は、輝かしい戦功を持っており、自ら勇猛な騎兵を率いて、四国を倒し北方を統一しました。彼は道教を尊敬し推奨しており、北魏で「天師道」を広めることを自ら推し進めていました。拓跋燾は、国師「天師道の創始者」寇謙之(こう けんし)の反対を聞き入れず、漢民族出身の家臣・崔浩の煽動によって50歳以下の僧侶を還俗させる聖旨を下し、その還俗した僧侶を兵や労役、あるいは税金を増やすために使いました。39歳の時に下した聖旨は最も厳しいもので、その聖旨によって全国で佛像が破壊され、佛経は焼かれ、寺院を破壊し、僧侶たちは生き埋めにされました。拓跋燾は道教を推し進めましたが、道教は衆生を普く済度することができず、道教を推し進めることは佛教を推し進めることより功徳が少なく、佛教を絶滅させる天ほどの罪を相殺できません。結果として拓跋焘は45歳の時、宦官に殺され、2人の子供(太子和恭宗)も続々と宦官に殺されました。

 北周(南北朝時代)の第3代皇帝の武帝・宇文邕も輝かしい戦功を持っており、北方を統一しました。彼は32歳の時、佛道ともに絶滅させ、約4万カ所の寺院を奪い、佛像を焼き、300万人の和尚と尼僧を強制的に還俗させました。結果として北方には佛法がほとんど消えてしまいました。36歳の時、誇らしげに自らの軍隊を率いて敵を討伐している時、急病で亡くなりました。その後、しばらくして皇族はすべて絶滅させられ、隋が北周に取って代わりました。

 唐朝の第18代皇帝の武宗・李炎も戦功があり、藩鎮の反乱を平定し、ウイグルを倒し、漠北を平定させました。彼は道教を信じていましたが佛教を信じておらず、26歳で即位すると佛教を非難し始めました。32歳の時、正式に佛教を絶滅させる聖旨を下しました。4600カ所の寺院を指名して破壊し、4万カ所の小さな寺院も破壊され、一つの郡に一つの寺だけを残しました。佛教の経典を燃やし、佛像を溶かして硬貨を作り、26万人余りの和尚や尼僧を強制的に還俗させました。これは歴史上で「会昌の廃佛」と言われています。当時、藩鎮の勢力が大きく、佛教を信じる人が多かったため、廃佛の聖旨は地方で浸透しませんでした。翌年に武宗が急死し、享年33歳でした。

 後周の柴栄は上記で述べた歴史の教訓を汲み取らず、強引に佛教の絶滅運動を推し進めました。配下の天を敬い佛を敬う心理に対し、彼は「佛は佛、像は像、佛は自分の肉や目も喜捨することができるのだから、佛像を壊してお金を作ることを、佛は喜んでいることでしょう。もし私の体で人々を救えるのなら、私も喜んで喜捨します」と言いました。

 柴栄は佛像を溶かして硬貨を作る命令を下し、家に5キロ以上の銅の佛像があった場合、上納しなければ死刑になります。一時的に天下の佛像はほとんどなくなりました。鎮州の大悲寺に銅で造られた観音菩薩像があり、とてもご利益がありました。その佛像を壊した人は手足を全部折られ、死んでしまいました。その後、この佛像に触る人はいなくなりました。柴栄は自ら斧で菩薩の胸を叩き切り、自ら佛教の絶滅運動を推し進めました。

 佛教の絶滅運動の4年目、さらなる大凶の天象を迎えました。

 2. 熒惑が房宿に留まり、天が逆王を攻める

 多くの人は「熒惑(火星)が心宿に留まる」という天象は歴史上、最大の大凶であり、最も重要な天象ということを知っていますが、「熒惑が房宿に留まる」という天象を聞いたことがある人は多くありません。実は『史記』で「熒惑が心宿に留まる」と「熒惑が房宿に留まる」は同列に論じられています。『史記・天官書』によると「(火)が房宿や心宿を犯し、王者が難に遭う」と書いてあります。ですから熒惑が心宿に留まることも帝王の天難です。


図:西暦959年天象図——熒惑(火星)が逆行して房宿に留まる、柴栄が佛教を滅ぼしたため天が攻める

 天象は予言であり、歴史上の功績や誤ちに対する天道の評価です。熒惑(火星)が順行して心宿に留まることに対応しているのは、最も正しく行う帝王です。例えば秦の始皇帝や唐太宗です。火星が逆行して心宿に留まることに対応しているのは、大逆無道、天に逆らう帝王です。例えば梁武帝・蕭衍、後梁太祖・朱温などです。同様に逆行して房宿に留まることや、尾宿に留まる天象に対応している帝王も天に逆らっています。房宿に留まって心宿から離れることに対応する帝王は、その王座が正しくない方法で取られたものです。それは天が明らかに示しており、彼に対する定論です。

 史書によると柴栄は後周の初代皇帝の太祖・郭威(かくい)の遺言によって即位したと記されていますが、現代人もそのように認識しています。実はそうではありません。柴栄は郭威の妻(柴氏)の兄弟の息子です。その後、郭威の養子になり、名前を郭栄に変更しました。柴栄は皇帝になると柴の姓に戻しました。それは養父に対する裏切りで、つまり養父(前皇帝)が授けた姓への裏切りです。この角度から言えば、前皇帝の権力を引き継いでいるとは言えません。

 私は慧眼通の功能でこの部分の天象に対応する歴史を見ると、柴栄の王座は奪うことによって得たものです。後周太祖・郭威の成人している息子は全て前の時代の皇帝に殺されました。太祖と皇妃は王座を幼い息子に譲りましたが、太祖が死んだ後、権力を握っていた柴栄は葬儀の前に即位しました。その王座は正しくない方法で得たので、柴栄は自分の元の姓に戻しました。そして彼は養父(郭威)の息子を歴史の記録から消し、柴の天下に変えようとしました。

 しかし、真実の歴史はすべて天象の中に保存されています。もし人間が知っている歴史が天象の歴史と合わなければ、後世の人によって変えられた可能性が高いのです。

 柴栄が佛教の絶滅運動を推し進めた5年目の時、柴栄自ら軍を率いて契丹(きったん)を討伐し、幽雲十六州を手中に収めました。42日間は刃を血に染めることなく勝利し、連続で3関3州17県を収めました。幽州を奪おうと思った時、高台に登って軍を観察していた柴栄は、その高台の名前が「病龍台」と呼ばれていることを知り、急いで高台から降りました。当日の夜、柴栄は奇妙な病に罹り、胸にできものが出現しました。兵の勢いが最も強い時、柴栄はすべての人の予想に反して、急遽兵を引き、自分の後のことを按排しようとしました。当時、959年漢暦夏の5月、ちょうど熒惑が房宿に留まった時でした。

 3. 予言を打破し、逆に天の網にかかる

 柴栄は撤兵の途中で、長さ3尺の木を得ました。その木には「点検(総司令官)が天子になる」[4]と刻まれており、彼は大変驚きました。この言葉の意味は、側近の点検・張永德が君位を奪い取ることを示しています。張永德は前皇帝・郭威の娘婿で、柴栄は郭威の養子です。五代の時期に前帝王の娘婿が、君位を奪い取ったことがあります。石敬瑭(せき けいとう)はこのように後晋王朝を創立しました。

 柴栄は都に戻るとすぐに点検・張永德の職を解き、最も忠実な大将軍・趙匡胤(ちょう きいん)を点検に昇進させました。柴栄はこのようにして「点検が天子になる」という予言を破ったと思い込みましたが、逆にちょうど予言の網にかかりました。

 当時はちょうど漢暦夏の6月になり、熒惑が房宿に留まる大凶天象が終わり、熒惑が心宿(天子に対応している天の区域)に侵入し、柴栄は危篤状態になりました。熒惑が心宿を離れた7月27日(図の中の赤い点の位置)、柴栄は死亡しました。柴栄の幼い息子が即位して半年経った翌年の正月3日、点検・趙匡胤が「陳橋の変」を起こし、黄袍(おうほう)を着ることになりました。後周が滅び宋の時代の始まりです。「点検が天子になる」という予言が的中しました。

 柴栄は天を敬い、神を信じ、道教も信じていましたが、佛を信じていなかったため、佛教を絶滅させる天に逆らう道を歩みました。彼は運命を信じており、 かつて占いに精通している諫議大夫・王朴に「私は何年の間帝位についていられるのだ?」と聞くと、王朴は「私の知識はまだまだ浅いですが、私の知識によって計算すると30年以降になると分かりません」と答えました。柴栄はそれを聞いて大変喜び、「もしあなたが言った通りになれば、私は10年で天下を開拓し、次の10年を使って国民を安定させ、また次の10年で平和になれば私は満足だ」[2]と話しました。しかし彼の帝位は5年6カ月しかありませんでした。「5×6=30」でちょうど占いの中で設けられた謎の30年と合致しました。

 これによると柴栄は予言を信じていましたが、予言の本質に届いていませんでした。五代の時期には唐の時代の『推背図』(すいはいず)がすでに流行っており、当時、基本的に人々は自ら手で写して伝えていました。その時、偽の『推背図』はまだありませんでした。基本的に時間に沿っている予言で、極めて正確だったのでかなり盛んになりました。五代の時期、多くの人は自分の子供に名付ける時、基本的に『推背図』から文字を選び、子供が予言通りに出世できるよう望んでいました。野心のある多くの者は『推背図』を深く研究し、未来の天命(帝王)が自分であるかどうかと推測してから、造反するかどうかを決めます。もし、柴栄が真剣に『推背図』を読んでいれば、自分の運命を見ることは難しくなかったでしょう。

 4. 予言の日付通りになり、玄妙な天道が現れる

『推背図』第十四象(金聖嘆版)  

 この予言を見たところ簡単でわかりやすいのですが、五代十国のことを予言していることが見えます。主人公は柴栄で、清の時代の文人・金聖嘆もこのように解読していました。しかし1300年来、このように表面的に解析することは、誤りがあるだけではなく、天機をも逸してしまいました。

 【李樹得根芽 石榴漫放花】:李という人物は五代時代の李存勖(り そんきょく)で後梁を滅ぼし、後唐を創立した。

 李樹得根芽:李樹が根付き、そして芽生えた(李存勖は後唐を創立してから数代続いた)。
 石榴漫放花:石は石敬瑭という人物を指し、燕雲十六州を譲り、契丹の兵を借りて後唐を滅ぼし、後晋を創立しましたが、二代で滅びました。石は後晋と対応し、榴(りゅう)という発音は中国で「劉」の発音と同じであり、劉知遠は後晋を滅ぼし、後漢を創立して、二代で滅びました。

 【枯木逢春只一瞬】:「枯木」は柴、「逢春」は芽生え、栄えることを指しており、後周世宗・柴荣のことを喩えています。上の図と対応し、上の絵(枯木と繁栄の様子)でも「柴栄」を喩えています。

 詩の中にはまた次のような意味があります。柴栄は力を尽くして文化と教育を重んじて国を治め、武力で領土を広げました。しかし残念なことに好調なのは一瞬だけで、柴栄は即位してから5年半後に病死しました。7歳の息子は即位して半年後、平和的に宋に取って代わられました。

 絵の中で枯木から一株だけの枝が成長しています。株は「朱」と同じ発音で、後梁の皇帝・朱温が創立した王朝の姓の朱を指しています。五代の乱世は一株(一朱)から始まり、柴栄で終わったことを喩えています。

 【讓他天下競栄華】:五代の時期は天下大乱で群雄割拠しており、互いに栄華を奪い合ったり、競争し合ったりして、帝や王を称じることが、ひっきりなしに起きていました。

 907~960年の間に中国は五代十国の時期に入りました。中原に続々と後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五つの時代が現れました。その他、中原以外の地域にも前蜀、後蜀、呉、南唐、呉越、閩(びん)、楚、南漢、南平(荊南)、北漢の10カ国が相次いで現れました。

 【金木水火土已終】:金木水火土の五行は五つの時代が移り変わることを喩えており、「已終」は五つの時代が終了することを喩えています。

 【十三童子五王公】:五代には13人の皇帝がおり、13人の皇帝が統治する期間は50年余りです。平均で計算すると一人の皇帝は約3年余りで、期間が短いため童子(子供)と喩えられています。

 金聖嘆は13人の皇帝と解釈しましたが、最後の周恭帝・柴宗訓が含まれていませんでした。つまり誤りがあるということです。柴宗訓は数え年7歳で即位し、8歳の時、強制的に宋太祖・趙匡胤に禅譲させられました。ですから皇帝に含まれているはずです。もし、柴宗訓が皇帝でないならば彼の禅譲は非法であり、それによって宋の時代の帝位自体も非法になるはずです。柴宗訓の帝位は宋の時代で承認されており、恭帝の諡(おくりな)は宋王朝が送ったのです。ですから彼は歴史上で帝王と定められるべきです。

 それによると五代は14帝ではないでしょうか? 現代史書にも五代の時期に14人の皇帝がいたと記されていますが、それにも誤りがあります。それは父を殺して帝位を奪い取った後梁郢王・朱友圭を皇帝と見なしていることです。朱友圭は父親・朱温を殺して自ら帝を称じ、ただ10カ月で弟の政変によって殺され、死後庶民に格下げされました。歴史上、彼の帝位はずっと認められていませんでした。現代人が彼を帝と見なしていることは、袁世凱を帝と言っていることに等しいのです。つまり帝位を奪い取った人物の評価を見直し、名誉を回復することは正しくありません。

 それに比べて『推背図』の13童子、五代13人帝王の喩えの方が正確に予言されています。その正確さは近代人が認識している歴史を超えています。

 【英明重見太平日】:国民はやっと優れた皇帝を迎えることができ、平和に暮らせるようになる。

 【五十三参運不通】:現在は基本的に金聖嘆の解釈に基づいています。その解釈によると五代の時期は全部で53年間ということになっていますが、これは誤りがあり、天機を失っています。

 古代は数え年で歳を計算していました。『推背図』も同じように年単位で年を記録しています。例えば第2象の予言で唐王朝の国運は「二九先成実」で、中国語の読み方は「二九乗十」と同じです。つまり29×10=290という意味です。唐の時代は西暦618年から907年まで続きました。『推背図』の中には290年と記されています。もし金聖嘆の計算方法で計算すれば289年になります。五代の時期は907年から960年まで続きましたが、『推背図』の計算方法で計算すれば54年になるはずですが、これは金聖嘆の53年の解釈とずれています。

 さらに深く分析すると宋太祖は、西暦960年漢暦の新年3日に「陳橋の変」起こしました。趙匡胤が黄袍を着るということは、五代後周の運数が通らなくなるということです。翌日、趙匡胤が正式に即位しました。

 ですから「五十三参運不通」は、五代が53年と3日間を経て、運数が通らなくなり、「陳橋の変」によって宋の時代が始まるという意味です。

 「参」というのは「叁」であり、つまり中国の大文字の「三」という意味です。例えば「驂馬」というのは三頭の馬で一つの馬車を引っ張るということ指しています。だからここで「五十三参」というのは、五代の運数が53年と3日ということを指しており、日単位の正確さになりました。

 五代十国は大変乱れていましたが、『推背図』の十四象の予言は一日のずれもなく、言葉使いも美しく、勢いが洪大であり、古典文学の中でも絶妙な文章であると称されています。

 この絶妙な謎かけは『推背図』が完成した1300年後、つまり現代になった今、初めて完全に解かれました。これは『推背図』が古人の偽りの作品ではなく、金聖嘆が作った偽りの本でもないことを証明しました。

 「参」という文字は、数字の三以外に「参運(運命を占う)」という意味もあります。「五十三参運不通」について、さらに深い意味は、参運によって第53年目になると五代の運数が通らなくなるということです。なお、五代の第53年目、つまり959年、一体何を占いましたか? 明らかなのは959年に熒惑が房宿に留まる天象が示されました。正確に天象と合わせることによって、初めてこのような一日のずれもない予言を作れます。

 「『推背図』の作者ですが、これほど深い天象の造詣があり得るでしょうか? 後人が無理やり付け足した話しではないでしょうか?」と聞く人がいるかもしれません。

 実はこれだけに留まらず、『推背図』で単なる今の時代に対する予言を述べると、信じる人がいないかもしれませんが、歴史の検証と打ち立てられた事実を合わせれば、はじめて現在の天象が人間に示した本当の警告を表すことができます。次の文章で私たちは『推背図』の本当の根源を明らかにします。

(続く)

 次集の目次

 古今の天象から正法修煉の延長について考える(3)
 ——孔明より李淳風に予言文化を一脈で伝承する
 1. よく知られている半人半神諸葛亮は神通力で痕跡を隠す
 2. 八陣図の中に鬼神の技を隠し、天数によって志が実現できなかった
 3. 一生涯二つの命で俗世を去り、再び輝かしい大唐風を造り上げる
 4. 李淳風:数学家、易学家、天文学家、天象学家
 5. 天象文化が大成し、予言文化が最盛期に入る

 [1] 『旧五代史·周書·世宗紀』
 [2] 『新五代史·周本紀』
 [3] 『旧唐書·武宗本紀』
 [4] 『宋史·太祖本紀』:「世宗在道,閱四方文書,得韋囊,中有木三尺餘,題雲「檢作天子」,異之。時張德為點檢,世宗不豫,還京師,拜太祖檢校太傅、殿前都點檢,以代永德。」


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/28/341942.html )