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引用サイト:明慧ネット
私が接してきた一部の旧勢力とその按排
私の学法は、二つの特徴があります。一つ目は学びながら、自分の一思一念と行動を実修している中で、絶えず法に同化しているかどうかを照らし合わせています。二つ目はよく思考を巡らせて大法を悟ることです。

 この思考と悟る行為は人為的に何かを想定するのではなく、学法時に私は常に何も求めず、心が静かな状態で一心に法を学んでいるため、頭に浮んでくるさまざまな疑問に対して思索するようになります。往々にして学法の中で法理からの啓発を受け、疑問が自然に解けてしまうのです。法理が分かった時、脳は瞬時に冴えてきて、澄み切った感覚が脳内トンネルを稲妻のように潜り抜けてから、花が咲くように幾重にも開かれ、読んでいた説法の内包を立体的に理解できるようになり、言葉では言い表せないものです。

 ある日、『轉法輪』にある「人の命門はきわめて肝心かつ主要なツボです。道家はこのようなツボのことを竅と言い、われわれはそれを関と言っています」[1]に対し、疑問を抱くようになりました。なぜ私たちはそれを「関」と呼び、あえて仏家や道家、あるいは漢方の呼び方を使っていないのでしょうか?

 私はその場で瞬時に分かりました。異なる法門には異なる呼び方があるからです。今回の私たちの大法修煉において、道家の「竅」や漢方の「穴」と呼ばず、「関」と呼ばせる特殊な内包があるからです。 

 もちろん、当時の次元における自ら悟った法理に過ぎません。そこが最も肝心です。 

 すでに歴史となった中国の冷兵器の時代、戦乱の紛争時期において、無数の血と涙や苦痛によって作り上げられた節節の輝かしい歴史の中で、無数の輝く英雄人物が演繹(えんえき)されました。これらの英雄人物の成功と失敗の肝心な節目は往々にして、多くの生死に関わる激戦の中にありました。たとえば有名な函谷関、虎牢関、雁門関、山海関などなど、あれらの険しくて巨大な関所の前では、歴史の運命に関わる無数の戦いがありました。

 今日、大法弟子は正法の中で師父に随って、幾重にも重なる旧勢力の按排を突破しながら、新宇宙に向かう過程は、歴史上のあれらの険しい関所での有名な戦いと似ています。天意に激しく人心が揺り動かされている中、壮絶な場面から感銘を受けながらもハラハラ、ドキドキしています。その驚異的なシーンが歴史に刻まれています。

 正法時期の大法弟子にとって、関を乗り越えきる原動力はどこにありますか? はっきり見えたのは、もっとも重要な源の一つは学法です! 大量に法を学ぶことです!!

 古代の兵書『孫子兵法』に書かれているように、「故に用兵の法は、十なれば、すなわちこれを囲み、五なれば、すなわちこれを攻め、倍すれば、すなわちこれを分かち、敵すれば、すなわちよくこれと戦い、少なければ、すなわちよくこれを逃れ、しかざれば、すなわちよくこれを避ける」。要約すると戦に臨むまたは関所を勝ち得る際、当方が敵より10倍の戦力を持っていれば敵を取り囲み、5倍であれば強襲し、2倍であれば兵力を2つに分けて戦い、互角のときは全力で正面勝負にかけます。又敵の戦力に及ばない場合は、退却と判断すべきで、勝ち目がないので早々に退却し逃げるしかないのです。

 大法弟子の学法は量が多いほど質が高いほど、他空間における大法の力が蓄積されてきます! それによって「関を乗り越えやすくなる」ことを見て来ました! その力は厖大なエネルギーとして現れたり、時には威力無辺なさまざまな法宝、または虚空の至る所で雨粒のように一面に広がる七彩の法輪として現れたり、ときには修煉者の次元の向上に伴って来られた多くの雄々しい護法神として現れたりもします。

 立ち向かう魔難よりは大法から得られる力が10倍も強ければ、魔難の背後にいる多くの邪悪を囲い込み全滅することができます。しかし、私たちの正念は修煉によって得られる力が弱かったり、大法に対する認識が良い常人に留まっていたりすると、関を乗り越えるのは難しく、辛うじて自己防御、又は迫害から免れようと逃げることしか望めません。

 師父は学法の重要性を強調されていますが、私は上記の意義を持たせているからだと体得しています。

 また実修の過程において、その都度の心性の向上、すなわち関を突破できた際に、師父はその次元における最も巨大な体を演化してくださいます。尽きることがないほどの宝物を、与えてくださることを見てきました。

 数年来、私たちは強い正念の重要性を強調してきました! いかに法を得た当初の修煉状態を保持できるかについても、交流してきました。しかし、多くの同修はどんなに努力しても、理想的な修煉状態に入れないと感じているのは、なぜでしょうか?

 個人的に思うには、多くの同修は修煉過程で関への突破は連続して失敗しているうちに、正念が徐々に弱まっているからです。しかし多くの関を乗り越えられるようになるにつれ、強い正念が生まれ、修煉状態もますます良くなります。これは意地を張っていればできるようなことではなく、日頃の修煉の積み重ねによって、自然に形成される状態になります。

 一度敗戦しただけで、正法時期の大法弟子としては消沈してはなりません。常人もよく「七転び八起き」と言っているように、 失敗すれば早急に学法を強化し、しっかりと三つのことを実行し、内に向けて探すと目覚めます。たとえすぐに勝ち取れるような力を持っていなくても、いくつかの小さな突破が果せるように努力して、少しずつ力を蓄えていけば、いずれ一挙に完勝を収めることができます。

 分かりやすい理屈ではありますが、しかし、宇宙大穹全体を転覆されるような圧力はあまりにも巨大で、計り知れないほどの旧勢力によって妨害と迫害されている中、どれだけ多くの大法弟子が関に撃沈され、意気消沈したことでしょう。また、どれだけ多くの大法弟子が関を乗り越えきれず、命を失ったことでしょう。無数の涙と鮮血、苦痛とため息が、苦難に満ちたこの18年間の歳月に織り込まれています。

 ここで言いたいのは、旧勢力に按排された関に従順して乗り越えるのではなく、全面的にその按排を否定し、旧勢力そのものも承認してはいけません。しかし、旧勢力が強制的に按排したこれらの迫害や劫難に出遭ったら、大法弟子としてそれを全面的に否定し、しっかり行うことにほかなりません。

 では、どうすれば否定できるでしょうか? 個人の理解としては、大法弟子の心性は基準に達していなければなりません。旧勢力の要求に合わせて迫害の中で自分を修めるのではなく、普段から大法の基準をもって厳格に自分を律し、着実に向上していくことです。それなら、旧勢力の迫害が許されません。たとえそれを押し付けられても、発正念すればきれいに一掃することができます。

 長年にわたる正法修煉の中で、私は一部の旧勢力に接してそれらの按排の一部を知りました。大法の法理および世間の実情をふまえた上、自らの次元で見た真相の一部を書き出すことに決めたのは、より多くの同修に参考にしてもらい、途方に暮れている状態から抜け出して、さらなる勇猛邁進を目指してもらいたいと願っているからです!

 謹んで、この文を正法修煉の巨大な難を乗り越えきれず、肉体を失った同修達に捧げます!

 謹んで、この文を正法修煉の初期からともに歩み、巨大な関や難を前にして、意気消沈したり、停滞したり、前へ進めない同修達に捧げます!

 謹んで、この文を一歩も休まずに堅い信念をもって歩んでこられ、さらに足取りを速めてますます前進している同修達に捧げます!

 果てしない道はいよいよ終焉となります。互いに励まし合って助け合いながら衆生を救っていきましょう。