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引用サイト:明慧ネット
http://jp.minghui.org/2017/07/15/54253.html
私が接してきた一部の旧勢力とその按排(二)
文/中国大陸の大法弟子
【明慧日本2017年7月15日】(前文に続く) 二、大法弟子が功能や神通力を用いることに対する旧勢力の按排 1、漸悟の修煉状態が旧勢力に抑制された 学法を通じて私たちは分かったのですが、すべての大法弟子が修煉の門に入るや否や、旧勢力によって強制的にあるシステムを按排されたのです。『轉法輪』で言われている地上佛や地上道が弟子たちに一連のシステムを按排し、最後に自分のところまで修めさせるような感じです。 『法輪功』を学ぶ際、師父はわれわれの法門が漸悟の修煉法門であることを明確に言及されたと理解しています。しかし、多くの修煉者は頓悟状態にいます。なぜでしょうか? 原因の一つは恐らく、今日の正法の進展を掌握するために、旧勢力は全力を挙げて大法弟子が持つ功能や神通力を抑制しているからだと思います。 この世に下る当初、あるいは異なる歴史的時期の中で、今回の文明において現れた禅宗の「頓悟」はさらに高い次元まで修められるという誤った思想の影響もあって、一部の大法修煉者は頓悟の形式を選択し、また、一部は頓悟と漸悟のどちらでも良いと思ってこの問題を重視しなかったため、このような現況をもたらしたと思います。 実際、師父が望まれていることが私たちの望みであり、正法のために必要とされることが私たちの選択であるべきです。 たとえば、仮説としてですが、大法弟子は普遍的に漸悟状態にいることが今日の正法に必要であるならば、私たちが頓悟状態にいることは旧勢力の按排を否定できなかったことではありませんか? 漸悟状態の中で皆が神通力を行使すれば、法を正す時期の各方面ももっと良くなったかもしれません。もちろん、これは仮説に過ぎません。大法があまりにも大きいがゆえに、個々の大法弟子の修煉の道はみな異なります。真に修めている大法弟子は、法理に対する正しい悟りと堅い信念によっても、今日のことをしっかり行うことができます。以上は、全面的に旧勢力の按排を否定する角度からのただの思索です。正しいとは限りません。 漸悟状態にいるからと言って、その同修がもっとも良く修めているとは言い切れません。何の功能もなく、漸悟状態にいる同修よりも心性がずいぶん高い同修は多くいます。私がここで言っているのは、修煉の道に対する選択です。 師父の『二〇〇四年復活祭ニューヨーク法会での説法』を学んでから、私は大法弟子の神の一面の復活、すなわち大法弟子は、正法修煉の中で神通力を用いながら衆生を救うことが正法にとって必要であることが微かに分かりました。 一例ですが数年前、ある人は運転中にうっかりして自分の孫娘をひき殺してしまい、それからずっと精神的苦痛と周囲の重圧に耐えきれず心の扉を閉ざして、真相を聞こうとしませんでした。その後、天目が開いている同修が彼と孫娘の輪廻転生の中の因縁関係を見て、世間の理を超越した理でもって説明をし、根気よく彼を説得しました。心が解放されて彼は大法の真相を知り、三退を選択しました。 また、私自身の例として、修煉過程のある部分について、後日、その部分に対応する他の空間の現れを知り、あるいは師父の法身による啓示を受けたりして、法理に対する理解が深まった経験があります。一度、あるプロジェクトで失敗した私は師父の法身から「無能」と評価されました。周囲の同修や世人の目から見た私はとても有能な人ですが、この「無能」がさらに高次元の評価基準で判断された結果ではないかと考えました。そのプロジェクトの全過程における自分のすべての言動と思惟方式を振り返って「無能」と照らし合わせれば、自分の不足または向上すべき部分が分かり、さらに歩んで行くべき修煉の道が見えてきました。 われわれは俗世間の中で人身を利用して主元神を修めているため、衆生を救うことを含む繁雑なことに囲まれ、意識し切れない部分が多くあるゆえ、向上が遅れたり、プロジェクトの推進が困難になったり、魔難の中で悟れずに苦しんだり、隙に乗じられて迫害されたりと色々なことに遭遇します。要するに、漸悟状態にいることができれば、比較的にもう少し良く行うことができるのではありませんか? 旧勢力が思うには、もっとも高貴な魂ともっとも堅い信念を持ちながら、もっとも平凡で無能な肉体を用いて修煉し、悟り、邪悪に抵抗し、「助師世間行」[1]、それこそが巨大な威徳で、本当に見事だということです。 このような極端な認識の下で、それらはすべてを極点に推し進めて、強行して大法弟子の体に一式のシステムを取り付けました。そのシステムを徹底的に否定し、突き破ることができない限り、漸悟状態にはなかなか入れません。こうすれば、それらは今日の正法の全過程がもっと掌握しやすいと思います。 旧勢力のこの方面における按排と妨げを突破できる同修がいます。元から漸悟の状態で修煉することが定められた大法弟子に対して、旧勢力はあまり目立って妨げる勇気がありません。これ以外の他に突破できる同修には、二つの特徴があると見ています。 一つは、真に修煉する心が非常に強く、ほぼ『道中』という経文の要求に符合していること、もう一つは、法理がはっきり分かっていて、この方面の観念の障害がないことです。彼らは大法に同化し、心が動じない状況下で衆生を救うことや、師に手伝うことさえできれば、正法修煉の角度から悟りを得て、必要なものだけを選択し、気の向くままに使っています。 2、功能や神通力を用いる使命がある大法弟子 元々神通力を使用する使命のある大法弟子に対して、旧勢力はそれを極端に阻害しにくいため、別の妨げる方法を取りました。それらは外部からその大法弟子の身辺に大量の力を按排し、破壊を行うのです。私が見る限り、これらの大法弟子の身辺にいる旧勢力の量は通常の大法弟子より2~3倍ほど多いのです。 旧勢力は彼(彼女)達が他空間の真相を言い出して、推進作用を果たすことを阻止するために、とても大きな力を入れて迫害してきました。 この種の迫害は内外の両面から着手されています。一つは、「有名になる」ことから形成された物質の場を利用して、周囲の修煉者の人心および観念を操って賛否の両方からその同修に迫り、極めて大きな圧力と複雑な環境を形成させることです。もう一つは、同修の体内から手をつけて、知らずのうちに思想が次第に過激または極端に走ったり、人心が重くなったり、観念がますます強くなるようにさせることです。 内外によるはさみ撃ちの下で、この部分の大法弟子はある次元または境地に修めていなければ、しっかりと心性を保つことが難しいのです。 では、なぜ旧勢力はこの部分の修煉者に対して、これほど大きな力を入れて対処しているのでしょうか? とても重要な原因の一つは、それらができる限り大法修煉者の思想を人間の次元に閉じ込めようとしていて、あるいはそれらの観念によれば、一定基準まで着実に修煉して行かなければ、人間の思惟方式という殻から容易に突破できないのです。 大法弟子たちはネット上で同修が書いた他空間に関するものを多く見ると、頭が修煉界の事、他空間との接触や対応、そして人間の空間を越える真の法理などに満たされて、自然に人間の思想を徐々に排斥し、人間の殻を破ると同時に正念を強めていきます。 旧勢力はある事をよく知っています。それは、多くの大法弟子は極めて深く厚い根基を備えているため、長期にわたる学法の中で、少しのきっかけや啓発があれば、指で障子紙を突き破るように急速に法理における昇華を遂げることができます。一旦、広範囲に渡る多くの大法弟子が深く法を理解するようになり、安定した修煉状態に入れば、邪悪な勢力は今日の正法の進展を掌握しにくくなると判断したため、全力を尽くして抑制と破壊を行うのです。 功能や神通力が使える多くの大法弟子の使命には、彼らの特殊能力を利用してきっかけや啓発を行い、他の同修を手伝って障子紙を突き破る作用を果たす内容が含まれています。ゆえに、旧勢力は彼らに対する「監視」に全力を注いでいます。 この部分の大法弟子は旧勢力による内外のはさみ撃ちの迫害を超越したければ、個人修煉において二つの肝心な要件を満たさなければなりません。そのうちの一つは「隠れる」という境界に達することです。 「功を開き悟りを開く、あるいは半ば悟りを開くと、神通力も出て来ますので、寺中の和尚がみな彼に教えを請い、彼を尊敬します。すると住職は耐えられなくなり、このままでは住職はやっていけないと思って、『なにが悟りだ? 走火入魔だ! 早く追い出せ』と怒鳴りつけます。小坊主は寺院から追い出されてしまいます。こうして時間が経つにつれて、われわれ漢民族地域の佛教では、功能を口にする度胸のある人はいなくなりました。済公は、峨眉山から木材を運び出し、寺の井戸から一本一本外へ抛り上げたほど、すごい力量を持っていましたが、それにもかかわらず、最後にはやはり霊隠寺から追い出されたのです」[2] ある日、『轉法輪』の上記の部分を読み、私はあることを思いつきました。もし私が済公なら、どうすれば寺院から追い払われず、住職に協力し、皆と一体になれるのでしょうか? その後、杭州の霊隠寺に観光に行った時、途中で、私は別の角度から済公に対する歴史的按排が見えました。歴史上、済公は神通力を用いて事を行うように按排されています。しかし、南宋の時、人々の道徳水準が古代に比べてさらに堕ちてきたため、不必要なトラブルを起こさず、より良く使命を完成させるために、歴史は済公を霊隠寺で出家するように按排し、神通力を「隠す」べきだと済公にも暗示しています。 済公は20歳の頃から神通力が現れ、まったく「霊隠寺」という名称の意味を悟っていませんでした。次第に、周囲の和尚や世人たちが彼の能力を知るにつれて、人心の作用や環境の変化といった複雑な要素は、一気に住職に押し寄せました。当時の住職はこの局面を適切に処理する智慧と能力がない上に、各種の圧力の下で取り除いていない嫉妬心が自然に現れてきて、済公を寺院から追い払ってしまいました。それが一時、済公の生活や使命を全うすることに不便さと良くない影響をもたらしました。 道徳水準が著しく堕ちてきた時代環境の中で、よりよく使命を全うするには、修煉者は「隠れる」知恵と境界が必要で、控え目でなければならず、甚だしきに至っては、能力があることを誰にも知られないようにする必要があります。 たとえば、明慧ネットでよくこの類の文章を見かけますが、多くの場合はペンネームさえも書かれておらず、ただ「某地の大法弟子」という統一した称号で書かれています。 今日の中国大陸の神通力が開いている大法弟子に対する一つの基準があります。天上の言い方を借りれば「俗世の中で隠れる」になりますが、そのような大法弟子はある心理状態、ある境界まで修めなければならないのです。 真にこの境界に達した時、随意に用いることができて、「有名になる」という物質の場を逆に利用して法を正す師に手伝う作用を果たし、または「有名」でありながら自由自在に進退することができます。 (続く) 注: [1] 李洪志師父の著作: 『ニュージーランド法会での説法』 [2] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
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