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引用サイト:明慧ネット
http://jp.minghui.org/2018/07/07/56071.html
明慧法会|私のすべてを師父と大法が与えてくださった
 文/甘粛省の大法弟子が口述したものを、同修が記録し整理

 私は60代の農村の女性で、小学校に入学した時、文化大革命に遭い、文字は少しはわかりますが書くことができない私は、結婚してから重病を患いました。しかし、法輪大法に出会った私は、法輪功は病気治療と健康保持のための普通の気功ではないと感じました。最も重要なことは書籍の中の法理であり、修煉して心を善に向かわせることを人に教える高徳の大法は、世の中で最も貴重なもので、人類が最も大切にすべきものです。その頃の私は、毎日の学法を怠りませんでした。

 修煉を始めた後、師父と大法は私の知恵を開いてくださり、集団学法でも私は同修と一緒に『轉法輪』と師父のすべての著作を通読できるようになりました。資料の真相短語を手本にしてお札の上に書き写し、字を書くこともマスターしました。その後、資料拠点と接触し、同修がレーザープリンターを修理しているのを見ているうちに、教養のない私でも修理ができるようになリました。

 私は、教養もお金もなく口下手ですが、正法修煉に必要な全てを師父と大法は私にを与えてくださいました。

 師父は私にパソコンを教えてくださった

 私は自分で資料を作りたいと思い、200キロも離れた技術者(同修)のところで学びました。しかし、道のりが遠いので交通費を払えず、私は2回学んだだけで行くのを止めてしまいました。すると、同修は「マスターできましたか? 大丈夫ですか?」と聞いてきました。私は口では「できます」とか「大丈夫です」とか言っていましたが、実際、心の中では本当に心細く、ちんぷんかんぷんでしたが、師父と大法が万能であることを信じていました。

 家に帰ってから、自分の学習したメモ通りにパソコンを開き、パスワードを入れ、システムが立ち上がった後はどうすればよかったのか? 頭の中が空白になり、私は何もわかりませんでした! そして、焦って泣き叫びました。泣き終わると、心の中で師父にお願いしました。この時、パソコンの画面には青紫色の大きな文字が4文字(もったいないことに、その4文字がなんであるかをその時は忘れていた)が現れていました。そして、パソコンのすべての手順はこの4文字の中に包括されていることを理解しました。

 すぐに字は消え、マウスを握ると、マウスは勝手にデスクトップ上のあるフォルダーまで移動し、そのフォルダーを開いてみると、まさにそれが私の必要なものだったのです。また、別の問題を解決しなければならなかった時、マウスがまた勝手に動き、それを開いてみると、またそれが私の必要とするものでした。2、3日間ずっとこのような状態で、私が完全にマスターすると、この状況はなくなりました。

 師父は私に、インターネットでのダウンロード、真相シールの複製やプリントなどを教えてくださったので、私は1人で大法の真相資料を作りました。

 赤色恐怖の中でも 師父が見守ってくださっている

 2012年夏、地元での迫害がひどく、いろいろな要素でもって、私を資料拠点から切り離そうとしました。

 私が離れてから2日後、ある人が電気メーターを調べるという名目で資料拠点に侵入し、14日後、地元のすべての資料拠点が破壊され、外出して居なかった同修を除いて、その他の同修は全員逮捕されて不当に判決を下され、最も短い人でも懲役4年、最も長い人は懲役20年でした。そして、この地域から資料拠点がなくなりました。

 こうして、外に出ない同修はさらに出なくなり、みんな『明慧週刊』を読めず、資料も手に入らなくなってしまいました。そして、私が気付いた迫害の表面的な原因は、資料拠点のある同修はお金に対して厳格ではなく、多くの同修が携帯電話や固定電話を使って互いに連絡を取り、さらに、同修自身の修煉にも漏れがあった、ということでした。このようなきびしい環境に直面し、自分が法を正す時期の大法弟子であることを思い出し、見て見ぬふりをしてそのままにするわけにはいきませんでした。

 師父は「皆さんも軽々しく誰それを見捨ててはいけません。この人にどういう過ちがあっても、どのような人であっても、私はこの人に機会を与えたいのです。もちろん、人類社会にはなんと言っても、既にだめになった世の人々がいるので、好きなようにさせればよいのです。今日主に大法弟子が更に良く行わなければならず、法を得た人を大切にすべきだということについてお話しました」[1] と説かれました。

 外に出てこない同修を法を正す進展に追い付かせるために『明慧週刊』を読ませ、私はアルバイトしながら部屋を借りて資料を作りました。そして、時間を節約するために、半日の時間をかけて1日の仕事をし、毎日3講の法を学び、それ以外の時間に資料を作りました。1カ月に700元稼ぎ、家賃は毎月300~400元で、簡易な部屋は3階にあり、地方の同修がまず先にパソコンとプリンターを送ってくれ、それらは使わずにいた物なので、私が運んで使うことにし、きわめて少ない収入でコピー用紙を買ってきました。また、支出を切り詰めるために、基本的に野菜や服は買わず、いつも菜っ葉を拾って食べ、破れた服を拾って着ていました。

 中国共産党が第18回全国代表大会を開く前夜、主要な街道には数歩おきに警官がおり、20歩おきにパトカーが停まっていて、守りが厳しくなっていました。そして、私が部屋を借りている建物の階下にも「警察」と特大に書かれ、高さが3メートル以上もある大きなトラックぐらいの白いパトカーの屋根にスピーカーと4、5個の監視装置が突き出しており、2メートルほどのアンテナが4、5本重なりながら違う方向に延びていました(後で聞いたのだが、インターネットを専門に探索するものだった)。そして、パトカーは階下に40日間ずっと止まり続け、中国共産党第18回全国代表大会が終わってやっと離れていきました。

 共産党の妨害のために、当時、ネット封鎖の突破が困難になり、ある時、4日間連続で明慧ネットに入れず、4日間飲まず食わずで、アルバイトする以外は、心の中で「もし金曜日に明慧週刊を同修の手元に送れなければ、私が逮捕されたか、あるいは、何か起きたのでは? と同修は思うだろう」と考えていました。そして、私は急に泣き出し、師父に香をささげ、弟子を助けてくださるようお願いしました。するとすぐに、ネット封鎖突破ソフトが明慧ネットを開きました。そして、私は順調にダウンロードし、明慧週刊と資料を印刷し、師父が助けてくださったことを心の中で感謝いたしました。

 師父の加持の下、環境は厳しくても、私は全く恐れませんでした。そこで毎週、周りにいる40人以上の同修に明慧週刊と資料を送りました。そして、私はすべてのものを大きく編んだ袋の中に入れて一杯にしたために袋を閉めることができず、私は手で袋をしっかり握り、口の中では『法輪大法は素晴らしい』と口ずさみ、警官が立ち並ぶ街中を落ち着いて通り抜け、資料を40人以上の同修の玄関先まで送り届けました。私の借家から近い場所にいる同修は「中国共産党第18回全国代表大会なんだから、送ってこなくてもいいですよ」と言い、ある同修は玄関先に紙の箱を置いて時間を決め、私が時間通りにその箱の中に資料を入れ、遠くにいる同修は決めた時間に私のところに取りに来ました。

 まるで師父が説かれた「関や難を向上する良い機会と見なして、放下できれば、この関を乗り越えることができるのです。一部の修煉者は関がとても大きいと思いますが、実はそれほど大きくないのです。それが大きいと思えば思うほど、関は大きくなり、あなたは小さくなるのです。もし気にせず、気にかけなければ、緑の山さえあれば、薪がなくなる心配はなく、師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればよいのです! 放下すれば、関は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまいます。その難は何程のものでもありません。必ずそうなるのです」[2] のようでした。

 私が毎週途切れることなく資料を送り続けて2カ月が経過し、表に出て来なかった同修もこの時になると続々と出てきてシールを貼り、資料を配り、面と向かって真相を伝えました。そして、さらに1カ月が過ぎたころ、私の手元に三退の名簿が送られてきました。始めたばかりのころは30人三退しただけでしたが、4カ月目には名簿が倍になり、5カ月後に送られてきた三退名簿は90人以上に達していました。そして、紙面にびっしりと書かれた三退名簿を見て、私は嬉しくなりました。

 ある高齢の女性同修は、一夜のうちに公安局と公安局の家族病院、および市政府の中に、1枚1枚真相シールを貼りました。そして、私はこの知らせを聞いて嬉しくてたまりませんでした! 同修達が外に出られるようになり、衆生に救われる希望が生まれ、これこそ師父が求めていらっしゃったことでした。

 資料拠点の運営が7カ月目になった時、ある同修が私に会いに来て「何年も私のことを探した」と言い、私の経済条件がよくないので「1カ月に3500元の仕事があり、毎日半日仕事をすればそれでよく、午後は学法をし、真相伝えができるが仕事をする場所が地方にある」と教えてくれました。

 私は師父が説かれた「中国大陸の如何なる弟子をも師父である私は取り残さないのです。反対の立場に立ってしまった人、救いようも残しようもない人以外、(拍手)私は学習者を気に掛けています」[3] を思い出しました。

 私は同修に「地元の同修は4年間明慧週刊を見ておらず、法を正す進展に追い付けませんが、彼らも師父の弟子であり、師父は弟子を連れて下ってこられ(世間に連れてきた)、さらに、弟子を連れて帰り(天国の家に戻る)ますので、同修にただちに明慧週刊を読ませ、資料を手に持たせ、法を正す進展に追い付かせることが重要です」と言うと、この同修は私の話を聞いた後、何も言わずに行ってしまいました。

 その頃、ある出来事が起こりました。ある時、パソコンのシステムに問題が起こり、新しくシステムを回復させなければならなかったのですが、システムディスクが家にあり、家は資料拠点から離れており、交通は極めて不便で、歩いてバスに乗って戻ってくるまでに3時間はかかりました。もし取りに行くのであれば、夜間時間を作って行くしかありませんでした。そこで「どうしようか?」と心の中でずっと考えました。そして次の日、仕事が終わって借家に帰ると、机の引き出しが少し開いているのに気付きました。引き出しを閉めた時、システムディスクの一部が引き出しのふちにひっかかっているのに気が付きました。なんと、師父がシステムディスクを取って来てくださり、私が見つけられないのを心配して、ディスクの一部を露出させてくださっていたのです。私は感動して、すぐに跪いて師父にお礼を申し上げながら、涙を流しました。

 私は1人で住んでおり、普段は同修とも連絡をとらず、何かがあっても誰にも相談をしないし、助けてもらうこともしません。そして、自分が本当に困難に遭った時には、慈悲深い師父に助けを求めました。

 まるで師父が説かれた「大法弟子よ、皆さんは濁世に輝く金の光であり、世の人々の希望であり、師に手伝う大法徒であり、未来の法王なのです。精進しましょう、世の中の覚者たち、現在のすべては、未来の輝きとなります」[4] のようでした。私のこの小さな生命が、法を正す時期を共にすることができ、最高の栄誉を感じました。

 師父が仕事を按排してくださる

 ある時、孫を連れて路上で真相を伝えていた時、たまたまある煉瓦工場を見つけました。中でアルバイトをしている人の中には農民が多いようでした。そして、こんなに多くの人々を見て、この人たちを救いたいという一念が生まれました。すると数日後、煉瓦工場の中にいた、新しく修煉を始めた修煉者が私に「この煉瓦工場では炊事係りのシェフを募集していて、給料は1カ月2000元なのですが、どうですか?」と言われました。私はそれを聞いて師父の按排だとわかり、気持ちよく引き受けました。

 煉瓦工場は三方を囲まれた山の入り口にあり、生活条件は苦難が多く、水はため池から桶で1回1回汲み上げなければならず、その価格はコムギ粉や野菜より高価でした。そして、そこの農民工(訳注:農村からの出稼ぎ労働者)は麺だけを食べ、野菜が食べられず、ソーダを入れすぎて黄色くなったマントーと、ソーダが少なすぎて青くなったマントーとめん類が捨てられて一山に積みあげられており、農民工の人達はずっと食事も満足にとれていませんでした。

 実際、私の生活条件も良くはなく、いつも自分が食べるものは粗末なもので、食事は簡単で、食事らしい食事を食べたことはありませんでした。しかし、人を救うために必要なのであれば、師父は助けてくださると信じていました。そして、私が蒸したマントーは大きくて白くて香りがよく、農民工は喜んでマントーを手に取り、マントーを揺り動かしながら「見て、おいしそうじゃないか?」と叫びました。そして、それを聞くと皆はすぐに煉瓦を運んでいた車を手放し、アツアツのマントーを食べに集まって来て、食べながら「おいしい、おいしい」と称賛しました。その後、私は自分でエンジュ(中国北部を原産とする豆科の落葉樹)の根とウコンを買って来てマントーを作り、農民工の食事を改善し、1カ月のうちにまずいご飯は一度も作りませんでした。

 毎日、三度の食事を作る以外に、余った時間は『轉法輪』を3講学び、工員に真相を伝えました。そして、1カ月という短い間に、煉瓦工場のすべての人が「三退」しました。さらに、煉瓦を運ぶ運転手と助手、さらにその友人と親族も真相を聞いて、加入していた共産党組織から脱退しました。

 師父は「いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」と説かれました。私はいつも大法の要求に従って自分を厳格に律し、なぜなら私は1人ではなく、大法を実証しなければならず、大法弟子としてのイメージを人々に表し、人々に法輪大法が素晴らしいことを知ってもらうためでした。共産党は法輪功を迫害し、人々を毒害するのに金を使っていますが、大法弟子は法を実証し衆生を救い済度しています。

 1カ月後、煉瓦工場の工場長は高利貸しから借りた借金が返せずに姿を消し、2000元の工賃を私は1銭ももらっておらず、とても疲れる仕事を1カ月間やり損でした。そして、このことを知った親せきと友人は私に代わって不平をこぼし、何度も私に工場長を追いかけるようにと言いました。しかし、私は少しも苦と感じておらず、恨まず悔いを残しませんでした。正反両面から見れば、三退名簿は32枚折の紙が 大きな紙2枚半になり、私は心の底から満足し、幸せでした。

 困難で紆余曲折の日々が多かった18年間を、師父と大法に対する信念によって道を歩み、何度も魔難を越えた後に「師父は最大であり、法は最大である!」ことの裏付けのないものは何もありませんでした。もし、師父の慈悲と加持がなければ、三つのことをしっかり行うことが出来なかったのはもちろんのこと、労働教養所で受けた残酷な拷問で、何度死んだかわかりません。迫害は今でも続いており、いまだに難の中で、大きな悪の環境の中にいる同修達が必ず師父を固く信じ、大法を固く信じ、師父は万能であり、大法が万能であることを固く信じるよう希望します!

 師父にお礼を申し上げます、同修の皆さん、ありがとうございました! 合掌!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『法輪佛法』「シドニー法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「祝辞」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 (明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/9/356199.html)