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引用サイト:明慧ネット
http://jp.minghui.org/2017/08/03/54163.html
トラブルの中で 常に自分を修めなければならない
文/陝西省の大法弟子


 【明慧日本2017年8月3日】「誰が正しいの? 誰が間違っているの?」これはトラブルや論争の中での核心の問題です。今の常人にとって、正しいかどうかを判断する基準は道徳ではなく、「自分に有利かどうか」が判断基準になっています。修煉者はこの問題をどう見るべきでしょうか? とても簡単です。トラブルや対立の中で、常人社会での是非にかかわらず、間違っているのは永遠に自分自身なのです。言い換えれば、トラブルは常に自分の向上のために存在しているので、その中で自分の間違いを探し出して初めて向上できます。トラブルの中で自分の間違いを探し出せない場合、以下のような原因が考えられます。

 一、後天的に形成された人間の観念と自分の主意識をはっきり区別できない

 トラブルの中で是非を判断する時、自分の主意識が法に則って判断しているのか、それとも後天的に形成された観念が主導権を握って判断しているのかを先に見るべきです。しかし、トラブルの最中において、大多数の人は後天的に形成された観念に左右されていることに気づきにくいものです。

 たとえば、せっかちな人は呑気に物事を進める人が気に入らず、慎重な人はうかつな人が気に入らず、自己表現が好きな人は無口な人が気に入らず、清潔で整理整頓を好む人は衛生面を注意しない人が気に入らない等々があります。

 常人の理から見れば、慎重さや清潔さ、陽気さや明るさ、そして物事を効率よく行っていくことは正しい理です。それを根拠に、私たちは堂々と気に食わない人たちに自分の考えを押し通そうとして、相手が改めなければ愚痴を言ったり、非難したりして、心が穏やかでなくなってしまいます。しかし、修煉者の角度に立って法に則って考えてみれば、私達は本当に正しいのでしょうか?

 人間社会での是非の判断は修煉者の判断基準ではありません。トラブルの中で自分の執着を見つけ出して、自分を正して向上を遂げることが修煉者のすべきことです。

 その時、自分を見つめ直して、後天的に形成された観念に惑わされたり、執着心に駆り立てられて、同修とトラブルや隔たりを生じさせていた自分の間違いに気づくでしょう。

 二、不当な待遇を受けているのか、それとも業を返しているのかをはっきり区別できない

 多くの同修は無実の罪を着せられた経験があると思います(迫害とは関係なく、日常生活の中での不当な仕打ちを指しています)。私も目の前で、不当な仕打ちをされて泣き叫ぶ同修たちを見て来ました。ある同修は他の同修を裏切ったという無実の罪を着せられ、ある同修は不当な男女関係を持ったと疑われ、ある同修は他の同修にお金をきちんと返していないという無実の罪を着せられました。最初の頃、私は彼らに同情して、彼らのために他の同修たちに対して積極的に説明し、事実を明らかにしようと動いたのです。今考えてみれば、当時の私は同修への情が動じて、法理に則て物事を判断できていませんでした。

 師父は私たちにこのように教えられています。「修煉するにあたって、具体的なトラブルに対処する時、誰かに辛く当たられたりした場合は、たいてい次の二つの状況が考えられます。一つはおそらく前世にその人に対して何か悪いことをしたのかも知れません。あなたは、『どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?』と言って心のバランスをくずすかも知れませんが、しかし、あなたはなぜ前世でその人にあんなことをしたのですか? 『あの時のことは知らない。現世は前世と関係ない』とあなたは言うかも知れませんが、そういうわけにはいきません」[1]

 師父はずっと前から、修煉の中で遭遇する魔難の根源を教えて下さっていたのです。ただ、私たちはそこに嵌っていて、悟っていなかっただけです。あなたはつらい思いをして大泣きしていた時、前世において相手に与えた不当な仕打ち、あるいはもっとつらい思いをさせていたことを考えたことがありますか? すべてのことにおいて因縁関係があります。修煉者はなおさら自分の修煉と無関係なことに遭遇しないでしょう。すべては自分が造った業によることです。師父はすでに私たちの大半の業を消して下さいました。残りは私たち自身が返すべきでしょう。それに、魔難を通じて私たちは業を返して心性を向上させることができます。自分の「名誉」が傷つけられたと感じた時、まさに名利を求める心を取り除く機会であり、とても良い事ではありませんか? 何を悲しむことがあるでしょうか? 修煉者にとっては本当に喜ぶべきことで、感謝すべきことです。そうではありませんか?

 こうしてみると、無実の罪を着せられた際に穏やかな心情を保てないのも、自分の間違いです。業を返すうえ、心性も向上させることができるこのような良いチャンスをくれぐれも逃さないで下さい。

 三、同修を正しく取り扱っていない

 私たちは修煉したいという一念を発した瞬間から、修煉状態の如何にかかわらず、高次元生命から黄金の輝きを発する貴重な生命として見られていて、法を正す師に手伝う使命も背負っているなら、なおさら貴く思われているでしょう。師父は私たちを大切に思われ、高次元生命も私たちを大切にしているのに、私たち自身が言い争ったり、お互いを見下してはいけないでしょう。

 それは執着や観念に影響された行為です。真の私たちは宇宙の特性に同化しているはずで、師父と同じく、周囲の大法弟子たちを大切に思っているはずです。彼らを見るとき、それぞれの法に同化した後の美徳を見るべきで、彼らの弛まず修煉の道を歩み、三つのことに励む気迫と威徳を見るべきです。その時、あなたはすでに同修のよく修めていない部分が見えなくなっています。なぜなら、正念の中であなたはあることがはっきり分かっています。それは、それらのよくない部分が真の同修の表れではなく、彼らはきっと師と法に従い、修煉の過程で徐々にそれらの良くない部分を正していくでしょう。

 下記の師父の説法を一緒に学んでみましょう。「修煉とは人心を修め、自分自身を修めるということです。問題に遭遇したとき、トラブルや困難、そして理不尽な扱いを受けたときでも、自分自身の問題を探し、内に向けて探すことができれば、これこそ真に修煉していることになり、絶えず向上し、修煉の道を正しく歩み、円満成就に向かうことができるのです!」[2]

 「自分を修める」に対する私の今の認識は、トラブルや問題が起きた時、直ちに自分が間違っていると反応し、真っ先に自分の間違いを探すことは絶対的に間違いのないことです。なぜなら、無条件に内に向けて探すことこそが修煉者の真に歩むべき道なのです!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文: 『台湾法会への祝辞』



(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/18/349808.html)