文化交流 > 修煉体験
引用サイト:明慧ネット
http://jp.minghui.org/2015/05/01/43023.html
一人の仙人から見た大法弟子(二)
(前文に続く)
前文で大法弟子が刑務所から出て亡くなった原因について触れたので、ついでに「その中のいくらかの同修が大きな事を行っており、刑務所でひどく迫害され、死に至ったのも、普通このような事はないのですが、彼らがやっている事が大きいから、耐えることも大きく、亡くなったことは例外ということですか」とこの仙人と検討してみました。 彼の話では(大体の意味)、「例外ではありません。大法の中で誰が例外になれるのですか? 刑務所に閉じ込められた多くの大法弟子が、長期に拷問、迫害されるのも長期に内に向けて自分を探さなかったからです。ミラレパの修煉の話を見たにも関わらず、無駄にしました。もしあれほど慈悲になれれば、本当に悪人に涙を流させるほど感動させたら、あなたを迫害する人はほとんど済度できるのです。救えない悪人は何といっても少数しかいないのです。ある人は悪人に善を勧めるのも表面に留まって、内心では彼らに反感し軽視しているので、長期に関を乗り越えることができません。そのためだんだん疑惑と恐れる心が生じ、恐れがわずかであってもおしまいになります。神の目から逃れることはできません。一部の大法弟子は本当に最高の善ができるので、迫害がどれだけ大きくても危険もなく、彼を迫害する人までも彼をこっそり守っているのです。このような人は神にも賛嘆されます」 話を聞いて、自分の「例外」を思うこと自身にも、大法の洪大さを信じていない要素があると気づきました。同時に師父が説かれた「各地の輔導站の責任者の仕事のやり方について、少し言わなければならない時がきました。研究会からの指示を執行することは正しいものの、その方法を考えなければいけません。わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです」[1]を思い出しました。 以前この法が同修に無私無我、慈悲にすべきだと理解して、常人にも、甚だしきには自分を迫害する悪人にも、このような慈悲の心を修めるべきとは思いもよりませんでした。自分の観念によりこの法への理解を限ってしまい、大法が更なる大きな範囲での威力を心得なくなって、当初刑務所で、私も自分を迫害した悪人たちを救えなかったことは、本当に残念でした。ある同修が体験談の中で話した場面を思い出しました。「あのような慈悲心が生じれば、本当に極悪な警官に涙を流させ、この悪徳な警官はその後本当に大法弟子への迫害を軽くした」というのは、彼の生命が救い済度された表れかもしれません。自分が想像もできない奇跡でした。私たちが大法の要求に従ってどのぐらい出来るか、それによって奇跡が現われてきます。 もし私たちがこれらの「悪人」に哀れみと慈悲を生じることができず、彼らに腹を立てたり、怨んだりすると、自分がまず悪くなるのではないでしょうか? 師父は「正しく対処せず、自分を修煉者として見なし、内に向けて探すことができなければ、本当にどうすることもできません。特にこの迫害の中で、正念を生じさせるのではなく、無数の恨みを増やしたのです」[2]と説かれました。私たちに「悪い人とは何か、良い人とは何かを知っていますか? 心の中に恨み、悪があれば、これはどういう生命になるのかを考えてください。恨みや悪は行為に現れ、人相に現れることもあります。顔を見ればあなたが悪い人だと人々は思います。一部の大法弟子の修煉ができていないと言っているのではなく、修煉して良くできた部分は隔離されました。この世で人間のものがある限り、良くないものがあり、良くない考えがあります。表面に近づけば近づくほど、現れは悪くなります」[2]と教えてくださいました。 私たちは一旦心の中でこれらの「悪人」への怨み、軽視があれば、本来修めるべき悪念がまず自分を汚染して、次元が落ちてしまいます。それでどうやって関を乗り越えられるのでしょうか? 更に師父が説かれた「常人社会のすべてがあなたの修煉形式になっています」[3]を読むと、もしかしてあれらの悪人たちが、大法弟子を成就させるため旧勢力によって、今生悪人にされたのではないと分かるようになりました。これらの悪人の初心は迫害の方式を通して救い済度されようとしたのですが、旧勢力に騙され、彼らを消滅しようとします。よく行なった同修が慈悲で彼らを救い、大法の中で旧勢力の按排を排除して、かつての「悪人」が過ちを改めて生まれ変わり、かえって大法を実証するようになったとき、本当にこのような人に喜びを感じます。 師父はまた「何の望みもない生命はどんな悪事でも働いてしまうのです」[4]と説かれました。もし大法弟子が悪人を救い難いと思えば、この人たちの分かる一面が絶望するかもしれません。そのため大法弟子にどんな悪事でも働いてしまって、本当にこの人たちを反対側に立たせてしまいます。もちろん彼らが大法弟子を殴打する事と、旧勢力が彼らを利用して暴力で大法弟子の正念、善念を生じさせることは法を正す要求に符合していないので、破壊になります。 師父が「学習者を基準、彼らの要求に到達させるため、邪悪の生命を利用し学習者を酷く殴り、邪悪極まりない手段を尽くしても、やはり目的を達成することができませんでした。そして、彼らは更に残酷になりました。最後になって、彼らは目的に達成できなかったのに、既に全力を尽くしたと言いました。なんと邪悪なのでしょう。しかしこの邪悪が生じたにもかかわらず、厖大な宇宙にいる各次元の生命はこの邪悪を感じませんでした」[5]と説かれました。 このような旧勢力の邪悪な按排を排除するには、常人を怨んだり、軽視することは反対の作用しか働かず、このような心理状態で正念を発しても根本的な作用がありません。大法への100%の固い信念と洪大な慈悲がなければ果たすことはできません。 現在直面している全体の協調についてもこの仙人と話し合いました。彼の話の大体の意味は、「大法の洪大さ、修煉の厳粛さを信じないからこそ、自我をあんなに重視するのです。協調人の間で、協調せず、互いに比較し合い、功績を争っています。特に一部の能力のある人が、自分の頭がいいからあれらの事をやり遂げたと思い、大法が与えてくださった知恵、師父が与えてくださった能力だと思わず、自我を膨張し、本質的に自分を実証しています。ある人は師父が直接指導してくださった経験を持っていても、裏で人より優れていると思っています」 これらの念は邪な神に全部見えるので、厄介な事を招いてしまいます。なぜ自分がこのようにたくさん指導されないと成就できず、このようにしなくても成就できる多くの人には、まだまだ遠いと思わないのですか? 劣れば劣るほど自分が正しいと思い込んで、ますます大法が知恵を開くことができると信じず、ますます法を勉強したくなく、遠い道を歩んでしまい、ますます損失をしてしまいます。かえって大法も仕方がなく、また彼が人間の方法で補なわなければならない‥と思うのです。 もちろん良く協調が取れている人も確かにたくさんいますが、しかし、個人が一旦自己満足して、自我が出てくれば、また厄介な事をもたらします。 私は師父が説かれた「皆さんの協調がよくできていないとき、邪悪は隙に乗じ、厄介なことをもたらします。法を実証する多くのことにおいて、それをやり遂げる方法はないのではなく、いくら難しくても皆さんが歩む道があり、その道は比較的に狭いのです。皆さんは必ず正しく歩むべきであり、少しずれても、間違ってもいけません。しかし、皆さんにやはり歩む道があります。つまり、皆さんは正しく道を歩むべきです。もし正しく歩まなければ、現在のこれらの邪悪に利用され、隙に乗じられ、妨害されます。実は私が先ほど言ったのは、皆さんが協調して何かのことに協力し合っているとき、あなたは自分自身を証明しているのでしょうか、それとも法を実証しているのでしょうか? 即ちこの問題です」[6]の法理を思いだしました。 この法を勉強して、自我のため自分を大法の更なる洪大な法理の外へと、阻んでいたことを発見しました。やる気はあっても力が伴わないと感じる時、自我を放下したのか、師父が説かれた「より多くの自我を放下することができると、法を実証する時の智慧は自然に沸いてきます」[7]を固く信じたのか、内に向けて自分を探すべきです。自分ができるかどうかは、やはり師を信じ法を信じる問題なのです。 (続く) 注: [1]李洪志師父の経文:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」 [2]李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』 [3]李洪志師父の経文:『各地での説法十』「マンハッタン説法」 [4]李洪志師父の経文:『導航』「米国西部法会での説法」 [5]李洪志師父の経文:『導航』「北米五大湖地区法会での説法」 [6]李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』 [7]李洪志師父の経文:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
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