動画 画像 音声 記事     
         
サブメニュー
      人体修煉
      神伝文化
生命探索  >  人体修煉
引用サイト:明慧ネット
https://jp.minghui.org/2020/12/30/72734.html
【明慧ネットラジオ】不治の病が治り周囲の人は驚いた(一)
文/黒竜江省の大法弟子 馬忠波

 1998年3月に私は両脚が大腿骨頭壊死になりました。はじめは脚を引きずりながら歩いていましたが、ついに2本の松葉杖をついて歩くようになり、半身不随になって最終的に這うことも非常に苦しくなりました。呼吸するほかは死んだ人と区別がなくなり、人生に何の希望も持っていませんでした。1999年3月、私は幸運にも法輪功を修煉して3日後、不思議なことに大腿骨頭壊死から快復したため、現地で爆発的なニュースになりました。私の父は当時「これこそ真の佛が世に下ったのではないか!」とはっきり言いました。それは中国では誰も話す勇気がなかった言葉でした。

 中国共産党が法輪功への迫害を始めた1999年7月から、私は地元の警察署と北京へ陳情に行きました。その時、私のことをよく知っているお医者さんが「あなたは法輪功の恩恵を受けましたが、なぜ真実のことを人に話さないのですか?」と言ってくれたのです。3回行きましたが毎回、強制連行されました。令状の提示もなく万家労働教養所で8カ月間拘禁されました。2回男性を収容する刑務所に連行されて、さまざまな拷問で転向を強いられました。最後に暴力的に殴られた後、全身が腫れて、痛くて、熱が出て20日間ほど続きました。乳房は少しずつ腐敗してなくなりました。最終的に乳癌と診断されましたが、何の治療も受けさせてもらえないまま家に帰されました。偉大な師父の慈悲の加護と同修の無私の助けで、3日後に新しい乳房が再生しました。不思議なことでした。

 私はとても幸せです。法輪大法が私に無傷な両脚と新しい乳房を再生して下さいました。最も幸いなことは、法輪大法が私に生命と金剛不壊の身体を下さったことです。残ったのは自分自身がもっと完全になることだけです。私の生命は永遠に永遠に大法とつながるべきです。

 一、20代の私は廃人になっていた

马忠波马忠波的女儿
馬忠波さんと娘

 私は今年42歳でハルビン市の阿城区に住んでいる馬忠波と言います。27歳のとき非常に重い両脚の大腿骨頭壊死症にかかりました。病気治療のため唯一の財産である住宅まで売りました。絶え間なく治療しましたが病状はますます悪くなりました。松葉杖をついて歩くこともできなくなり、ついに地面を這い始めました。

 思い出すとあの当時は毎晩眠れず、絶えまない痛みを受けていました。さらに、私は同時に動脈硬化、五十肩、胆嚢炎、腎臓炎、結核性の肋膜炎、胸膜癒着、心臓病、心筋虚血、脳梗塞、めまい、頭痛など十数種の病に罹っていました。脚ばかりでなく腕もあらゆる所が痛くて、特に右腕は伸ばすことさえできませんでした。物を持つことができなかったのでご飯を食べるのも水を飲むのも全て人の世話になっていました。あるとき、飯茶碗を持ってご飯を食べようとしたらすぐにご飯をオンドルの上に落としてしまいました。家族は私を叱ろうとしましたが、私がもう泣きぬれていたので、すぐに大丈夫だと慰めました。20代ですでに廃人になっていました。

 1999年2月6日の最終診断の時のことは、今でもはっきり覚えています。当日は7番目の姉がハルビンの北方大腿骨頭壊死症研究所の2階まで私を背負って行きました。診察室で床板に伏せて、押し黙っているお医者さんは私を心配して、今回の診断について詳しいことは言いませんでしたが、最終的に二期の両側大腿骨頭壊死症と診断されました。一縷の希望を持って、私はびくびくして聞きました。「先生、次の検査はどのくらい後でしますか?」。お医者さんは呆然として「8カ月あとかな」と答えました。

 青天の霹靂で私は腰を抜かしました。私は本当に助かるのでしょうか? 私は徹底的に絶望しました。2000元ほどの薬を買いましたが、もう治療するためのお金はありませんでした。家族のことは考える勇気もありませんでした。家族は私の脚のせいで完全に崩壊しました。生きることは私にとっては高嶺の花のように過分な要求でした。

 7番目の姉は、車で私と6歳の娘を賓県の実家まで送って年を迎えるようにしました。そのときは7番目の姉婿が私を背負って乗車しました。

 正月の15日を過ぎたばかりのとき、夫は私と娘を捨てて出て行きました。彼は私の病気はもうとても治る見込みがないことを知っていました。私は彼の腕をぐいっと引っ張って言いました。「私も自分の病気はもうよくなる希望がないことを知っています。今から何の治療もしません。生きる時間も長くないと思っています。家にはまだ4000元あります。私が死んだあとあなたと娘に残しておきます。でも今はあなたの看病が必要です。痛くてもあなたが揉むと少し緩和します」。でも彼はほったらかしにして、2000元を持って離れました。

 あの時わたしは28歳で彼は29歳でした。夫が離れた後、私は徹底的に絶望しました。私は1日中泣いているばかりでした。自分の人生はもう果てに着いたと思いましたが、7歳になったばかりの娘が母のない子になると思うと心が痛くてたまらなくなりました。その時は神様は不公平だと思い、夫は義理も人情もないと恨みました。

 私の体はますます悪くなって、激しい痛みは絶えず私を苦しめ、追い詰められて途方に暮れていました。ある日、私は父と母がひっそりと言うのを聞きました。「子供がこんなに痛がっているのを見ていることはできません。仕方ないから家を売りましょう。1軒の藁葺きの家でも2、3千元で売ることができます」。本当に両親はわたしのことを思っていました。

 二期の両側大腿骨頭壊死症でしたが、二期とはどのような状態でしょうか? 松葉杖をついて歩くこともできなくて、這うことしかできませんでした。私が何かをしようとするとき兄たちは交替で私を背負いました。私は家族を巻き添えにしたこと、特に父と母が家産を傾けて私の病気治療をしようとすることが嫌でした。私は毎日泣いているばかりでした。布団を覆って夜が明けるまで泣きました。翌日、母の赤く腫れている眼をみて母も一睡もしていなかったことを知りました。それから私は、あちこちが痛いと母に嘘をついて、もっと多くの薬を買ってもらって一気に飲み、緊急措置をとる機会も残さないで、死んでしまおうと思っていました。自分が死んだら何もかも終わりだという考えでした。母は友人に私の病気を訴えて、治療方法を尋ねましたが、だれも救いようのない癌だ、特効薬はないと言われました。